「寂しい。地震で周りは更地やし、友達も遠くに行ってしもた。孫も結婚して出ていった。息子夫婦が仕事から帰るまで、家でテレビ見とるしかあらへん」
神戸市長田区の被差別部落に住むA子さん(83)は、話し相手を求め、週二回、高齢者の介護相談などをする「ヘルパーステーション」に通う。午前十時の開門前に訪れ、つえを傍らに置き、道端に座り込む。そうしてヘルパーの到着を待つ。
「アパート(改良住宅)にも友達はいるけど、鉄のドアは閉めっぱなし。エレベーターに乗ったりして、たいそうやからよう行かんねん」。文字はあまり読めない。だから電車にも乗らない。まちの外に出ることは、ほとんどない。
A子さんは時折、昔を懐かしむ。長屋が密集し、家の扉は開け放しだった。近所で食事を一緒にしたり、米やしょうゆも気軽に貸し借りできた。
地元の子供会連合会によると、一世代前は各家庭に子供が何人かはいた。しかし成長して結婚、次第に生活力が高まると、「改良住宅は狭い」「将来、子供への差別が心配」などの理由から、子の世代は次々に地区外に出た。地元のある小学校は震災前も、毎年二十人ずつ児童が減っていた。
この傾向に、震災が拍車をかけた。特に激しい被害を受けた木造住宅地域では、避難した若い世帯が、地区外の公営住宅に当選して戻らないケースが多い。
震災で、二十人いた子供が八人にまで減った街区もある。A子さんは何回も繰り返した。
「寂しいで」と。
同地区の高齢化率は九五年の国勢調査で一七%。市平均を三・五ポイント上回っていた。再建中の被災改良住宅の抽選では、高齢者優先枠も設けられた。先のステーションを運営し、震災前から地区で昼食宅配サービスなどをする企業組合「神戸労協」は「復旧がなった日、高齢化率は三〇%を超えるのでは」とさえ推測する。
旧市街地が共通して抱える悩みに差別が上乗せされ、いびつに進む高齢化。地区の診療所はお年寄りの悩みを積極的に聞いて心のケアに努め、民生委員は月一回、お年寄り対象の昼食会を開く。波を、地元で受け止めようという懸命の取り組みだ。
B子さん(56)は昨年、主婦三十三人でボランティアグループを結成した。「将来はお年寄りの話し相手をしたい。ここの女性は共働きが多くて活動は制約されるが、この街をうば捨て山にはしたくない」。結婚後、夫の実家がある鹿児島へ転居したが、二十年前、家族で帰ってきた。「差別はどこにでもついてくる。故郷で役立ちたい」。目が輝いていた。
八月二十三日、地蔵盆が華やかに繰り広げられた。子供の健やかな成長を願うこの行事は、昔、栄養失調で子を失うことの多かった同地区にとって、特別な意味を持っている。親類が勢ぞろいして街は正月をしのぐにぎわいをみせ、楽しげに孫を抱いて歩くお年寄りの姿もあった。
「家族が近くに住める住環境づくり。それが今、このまちの課題」。地元で部落解放運動を担う一人の、実感である。
1997/9/11