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震災と被差別部落
 3年目初秋の報告 人権 新たな世紀へ

(2)人間って あったかい ”偏見の壁”少し崩れた
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 「最初は、差別事件があるんじゃないかと心配した。でも、起こったときは起こったときと腹をくくった」

 芦屋市立上宮川文化センターには震災当時、地元の同和地区の二百人が避難した。地区外からも二百人が駆け込んだ。センター職員にとって「それまで顔を見たことのない人たちだった」。そして、普段は付き合いのない地区内外の四百人の、約四カ月間に及ぶ共同生活が始まった。

 避難住民の表情は対照的だった。震災の前年に住宅改良事業が終わった地区内に比べ、周辺の被害は大きく、落胆の大きさは住民の表情から見てとれた。

 一、二日目、救援物資は届かなかった。地区の女性たちは改良住宅に戻り、米をかき集め、電気がま十二個を持ち寄った。センターの料理教室で、子供たちと握り飯づくりに励んだ。

 二、三回炊いたぐらいでは追い付かないほどの避難者。「どないするんやろう」。センター長の中尾由喜雄さん(49)は不安だった。「私ら後でええから、外から来た人にあげて。外の人が大変やから」。威勢よい声に救われた。

 声の主は地区出身の女性Aさん(59)だった。半年前に夫を亡くし、ローンの最終年だった自宅は全壊。命からがら愛犬と避難していた。

 他人へのやさしさは、同級生や教師からも相手にされなかった少女時代からの被差別体験で学んだ。「自分だけがよくなるのではだめ。みんながよくならないと」

 部落解放の運動団体から救援物資が届いた時も同じだった。「部落の人だけが取ったらいかん。平等に分けたって。品数が足りん分は地区周辺の人に分けて」とさい配を振るった。

 同市内には五十数カ所の避難施設があった。中尾さんは「地区の施設だから対応が悪いということだけはあってはならない。日ごろの偏見があるから、『やっぱりあそこは…』という風評が立つことだけは避けなければと思っていた」

 心配は杞憂(きゆう)に終わった。地区の住民が、普段とは違うよそ行きの言葉で懸命に話していた。その姿に、涙がこみ上げてきた。「助け合いで、互いの偏見が瓦解(がかい)していくのを感じた」と振り返る。

 Aさんも「震災以来、道で会ったら笑顔であいさつしてくれる人がいる」と純粋に喜ぶ。

 ボランティアたちの心にも触れた。「これまでの人生、人からそんなにやさしくされたことがなかった。冷たさを当たり前のように思っていたけど、人間て、あったかいもんですね」

 そんな体験から二年半。「一気に交流が活発になったわけではない。でも、地区外の人のセンター利用率が増えている。それまでは映画会や講演会の宣伝をしても、まるで効き目がなかったのに」と中尾さん。

 Aさんもいう。「地区外の人からも感謝され、今までになかった深いつながりができたよう」。震災では、被災しただれもが弱者で、平等だった。そして、個人と個人のふれあいが、偏見の壁を、少し崩してくれた。

1997/9/3

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