「仕事変わって落ち着いたら、離婚するから」
九七年五月。夫はあっさりと、そう告げた。震災後に発覚した乳がんの手術、糖尿の悪化と、入退院を繰り返した直後だった。
予想はしていたが、衝撃は大きかった。自宅は全壊し、蓄えはなかった。生命保険を解約して一部を入院費にあてていた。
「こんな体でこれからどうしたらええんや」
弘美さん(51)=仮名=は心労で同年夏、再び入院した。その入院中に喫煙を始めた。
北海道の農家で生まれた。五人兄弟の三女。幼いころに母は家を出て、父は十五歳の時に亡くなった。中学卒業後は親類の家に身を寄せ、ラーメン屋で働いた。二十歳の時、知人の薦めで神戸の食品工場に働きにきた。
大分から出稼ぎに来ていた六歳下の夫とは、その工場で出会った。「幸せになりたい」。そう願った。しかし、期待通りにはいかなかった。四カ月後、夫は給料を家に入れなくなった。長女を妊娠中、今度は暴力をふるい始めた。仕事も何度も変わった。「離婚」という言葉がいつも目の前にあった。
そして震災、大病。「自然と離れていったんや」。自分に言い聞かせた。
一緒に暮らしている二女(21)が失業した九八年春、生活保護を申請した。仮設住宅が当たらず、民間マンションを借りて家賃補助を受ける。「公営住宅に応募してるんやけど、全然当たらへんねん」
台所のいすに座り、一人で煙草(たばこ)をふかす日々が続いた。多い日は三十本を超えた。「どうせ、私も長くないんや」・。そんな思いもあった。
「お母ちゃん、体弱いんやし、私が守ったる」。一緒に暮らす二女の励ましが少しずつ、心を和らげていった。
昨年末、ようやく通院と買い物以外で外出する気分になった。今は被災者の集いにも顔を出す。「くよくよしてもあかん。娘と二人で生きていこう」。そう開き直った。煙草の本数も減った。
最近、二女が「お父さんがやり直したいって」と言ってきた。「何を今さら」と答えた。心がふっと軽くなった。
1999/3/13