震災翌年の夏、岡山県赤磐郡の山陽団地を訪れた。被災地から約百五十世帯が移り住んでいた。
うだるような暑さの戸外で写真を撮った。だれもが兵庫に帰りたいと訴えた。シャッターをきるのがつらかった。
復興住宅に申し込もうにも、情報はほとんどなかった。問い合わせても、県外に出たことで後回しにされた。「もう帰れないかも」。絶望感を口にする人もいた。
個別に動いても事態は動かない。百五十世帯は「岡山阪神会」をつくり団結した。代表者が二カ月ごとに神戸を訪れ、行政と交渉した。
一九九五年の九月。広島県でも、県内各地の県営住宅などに避難した被災者約二〇人が「広島のじぎくの会」を立ち上げた。
月に一度、中心街の広島YMCAで情報交換に集まった。YMCAが事務の代行を買って出た。電話、ファクスの利用、案内状の印刷と郵送。支援は多岐にわたった。
今、神戸に暮らす松本秀勝さん(79)が振り返る。「おかげでみんな集まりやすく、寂しさを乗り越えられた。自然に自立の気風も芽生えた」。
YMCA側の中心メンバーで元保育園長の一(はじめ)泰治さん(62)がさらっと言った。「困っている人を助けるのは当然のこと」
震災で県外に出た人は推定五万五千人。まだ帰りたい、もう帰れない。今も県外で暮らす人の数は定かではない。(写真部 三津山朋彦)
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震災から十回目の夏。被災地をめぐる夏模様を「今」に重ねた。
2004/8/3