テレビは変わり果てた神戸の姿を映し続けていた。
一九九五年一月十七日未明のその時。当時、京都工芸繊維大の大学院生だった笠原一人(現・同大助手)は、大学の研究室で激しい揺れを感じた。修士論文を書く手を止めてテレビを見ると、故郷の神戸近くが震源だった。身が震えた。だが一緒にいた友人たちは、すぐにまた論文と向き合った。「日常に戻っていく周りの人たち。ひとごとのような雰囲気に、自分の街が大変だとは言えなかった」
神戸市灘区にある実家の被害は軽微だった。一週間後、西宮から実家まで歩いた。避難所には人があふれ、物資の仕分けにボランティアが奮闘していた。が、流れには乗れなかった。神戸の人間であっても被災はしていない。そんな立場を考えると、大変でしたね、と声をかけるのは偽善的な気がした。全くの部外者なら、もっと素直になれたかもしれないと思う。
「被災者でもない。かといってひとごとでもない。どこまでいっても宙ぶらりん」
やがて復興が進み、被災者が「記憶」の語り部となって震災を伝え始めた。違和感が膨らんだ。そこにいなかった自分は、受け身にならざるを得ない。「確かに、痛みは体験していない者には分からないのだろう」。震災を体験できなかったことが悔しくさえ思えた。
詩人の季村敏夫が経営する神戸市長田区の金属材料商の会社は、社屋が全壊した。四十年以上慣れ親しんだ下町そのものを瞬時に失った。
震災後、神戸という都市は「教訓」「防災」の掛け声の下で姿を変えていく。ついには「記憶の風化」までが論じられるようになった。会社の再建に向けて奮闘しながら、被災地の心情を詩につづってきたが、「復興」の流れには距離を感じている。
下町の住人たちは土地から切り離され、バラバラになった。震災を語ろうとしない、いや語れない人もいる。「教訓のために死んだのか」「思い出したくもないが、忘れたくもない」という遺族-。
「教訓」を否定するのでない。ひとつの視点に震災の記憶すべてを収容しようとする急速な流れは、「被災者のさまざまな思いや葛藤(かつとう)を隠蔽(いんぺい)していく」と、季村には映るのだ。
「被災者の雄弁と沈黙は表裏のもの。『教訓』には、被災者の沈黙の意味を考える視点がない。何をどう伝えていくべきなのか。もっと試行錯誤が必要ではないか」
季村は震災後、社屋跡地のプレハブに「震災・まちのアーカイブ」を開き、震災ボランティアが残した資料を収集、公開する作業を始めた。九九年、そこを笠原が訪れた。「資料の整理なら、自分にもできるのでは」。そんな思いからだった。
アーカイブで生の資料に触れることで、笠原はひとつの発見をした。
「この書き込みは何だろうと想像しながら、資料を繰っていく。震災の追体験でも、あの日の再現でもない。自分の思いを資料に積み重ねることで、他人の体験を自分の記憶にしていける」。「非当事者」が震災にかかわる糸口を見いだしたように思った。
季村はあえて「当事者といえるのは死者のみ」という。生存者の体験を軽視するのではない。記憶を普遍化するためには、だれもが自由にかかわれるような開かれた場が必要と考えるからだ。
「体験の有無ばかりを重視すれば、被災地の外側にいた人は登場しようがない。当事者だけが語る記憶は、いずれ閉じたものとなってしまう」
二〇〇二年、季村や笠原は研究グループ「〔記憶・歴史・表現〕フォーラム」を立ち上げた。歴史、民俗学の若手研究者ら十三人。多様な記憶の在り方を考えるためだ。
当事者もたやすく整理できず、日々変化していく記憶。それを他者へ「複製」する試みを「共有」と呼ぶなら、果たしてそれは可能なのか。
しかし人が出会い、互いを理解しようとする限り、必ず何かが伝わるのも事実だ。
メンバーは議論を重ねた。「痛みなど体験の完全な共有は不可能。それでもなお、人は記憶を分かち合い、自分の思いと重ねようとする。それは『共有』というより、一人ひとりが記憶を自分のものとしてかかわる『分有』ではないのか」
災害や戦争、公害…。“負の記憶”ともいえる体験を、他の国や地域ではどう伝えようとしているのか。東京や沖縄、水俣、ドイツ、ポーランドを訪ねた。
ドイツではユダヤ人虐殺の歴史をめぐり激しい議論が続いていた。一代、二代で解決する問題ではない。語り部も少なくなっていく。体験のない『遅れてきた人たち』に何をどう伝えるのか。
季村はいう。「彼らは絶えずその問いに向き合っている。神戸はどこまで真摯(しんし)に問いかけてきたのか」と。
多様な記憶に人々が自らを重ねて受け継いでいく「分有」。それによって、記憶は被災地の外へと広がり、より豊かになる-。「記憶は変化する。しかし、もうそれを風化と呼ぶ必要はない」。笠原はそう考える。=敬称略=(仲井雅史)
2005/1/17