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 ガラスに覆われた建物には「1995」「5・46am」という文字が透けて見える。国道2号から南、海に近い神戸の東部新都心に「人と防災未来センター」はある。阪神・淡路大震災の「記念」施設である。

 破壊された街が模型として再現される。大地の揺るぎの大きさをとどめる物がある。ゆがんだ側溝のふた、全壊した倉庫のレンガ、五時四十六分で止まった腕時計-。体験談が添えられ、語り部が体験を証言する。復興の道のりから助け合いや命の尊さを感じてもらい、防災のための研究成果を提供する。

 「恐れや悲しみや安心の気持ちを追体験してほしい。それが防災につながる」。副センター長の深沢良信は、施設の狙いをこう話す。昨年度は、五十万人以上が訪れた。震災の記憶を伝える代表的な場所と考えられている。

 だが「メモリアルでなく、未来に生かす」(深沢)というコンセプトに対し、〔記憶・歴史・表現〕フォーラムの笠原一人(建築史)は「多様であるはずの記憶を『教訓』へと回収している」と、懸念する。

 センターに収められる震災資料は十六万点に及ぶ。しかし、それぞれに宿るさまざまな記憶は、「防災」という大きな語りの中で、後景へと退いてしまう。むしろ資料に自由にアクセスできる仕組みが必要ではないのか。

 「再現や証言のような方法だけでは、当時のできごとや当事者ばかりを重視することになる。それでは非当事者は受け身にならざるを得ず、隔たりができてしまう」

 ひとりひとりにとって異なる震災の意味を、ある目的へと秩序だてる。「防災や命の尊さは震災を伝えやすくする物語の形式」だと、大学院入学直後に震災を経験し、記憶の継承をテーマとする神戸大COE研究員の今井信雄(社会学)は指摘する。

 それは震災を学び、次の災害に備えるには欠かせない。だが、そこからこぼれ落ち、矛盾するものもある。聞くことのできない死者の声。負の経験に耐えながら生きざるを得ない人の葛藤(かつとう)や沈黙。

 「そうした物語のほころびを感じ、自問自答する機会がなければ記憶は伝わらない」(今井)

 震災を知る人はやがていなくなる。風化を免れるため、主体的に記憶にかかわるには。

 「出来事の記憶は“痕跡”としてモノに刻まれる。痕跡=モノの前では、だれもが他者にならざるをえない。痕跡を発見し、出来事を想像することで、記憶はすべての人に開かれる」と笠原は言う。

 そのための装置として、フォーラムは「記憶の〈分有〉のためのミュージアム構想」を掲げ、移民収容所という歴史を受け継いだ神戸・北野の芸術拠点・CAP HOUSEで展示を試みている。

 「棚へ」と題する作品では床に置かれた封筒を手に取るところから、記憶への参加が始まる。封筒の中にはボランティアの日誌や手記など震災資料がある。壁には郵便局にあるような区分棚。それを読み、感じることを書き込み、棚のどこかに収める。

 「記憶の行き先は『防災』ではなく、まだ配達の途上にある。受け取った人が、それぞれの思いを重ね、だれかに伝えるのを待っている」

 あるいは譜面台の前に立ち三編の詩を自由に朗読する。震災のイメージが込められた文字を自ら声にし、耳にすることで、だれもが「当事者」になることができる。

 多声的であり、可変的であること。

 「記憶は常に複数あり、変わっていく」と、記憶の文化を研究する大阪大助教授の水野博子(歴史学)は話す。

 例えば、第二次世界大戦後のオーストリアでは、「ナチス=ドイツに侵略された最初の犠牲国」という集合的記憶が定着し、逆にユダヤ人をはじめとする迫害された人々の記憶は排除されてしまった。

 「政治的な力が加わることで、あたかも一つの記憶しかないように語られてしまう。矛盾する記憶がどのような文脈で成立し、だれが主体かを問うことが重要だ」

 復興誌を編み、防災センターをつくり、ルミナリエを催すことで、震災が完結するというわけではないと、フォーラムに参加する詩人の季村敏夫は言い切る。

 「いつかの、だれかに向けて、記憶を開いていくこと。それにより戦争や災害や公害のような人間を取り巻く災厄を、身近な問題として引き寄せることができる」

 フォーラムが投げ掛ける、震災十年の問いかけである。 =敬称略=(田中真治)

2005/1/18
 

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