震災の研究グループ〔記憶・歴史・表現〕フォーラムのメンバー、蘇理剛志は十年前の地震で小学六年生の弟を亡くした。神戸市東灘区にあった自宅が全壊し、崩れ落ちた屋根や家具が十二歳の命を奪い去ったのだった。
蘇理は長男で、亡くなった弟は末っ子の三男。明るくて人なつっこく、サッカーが好きだった弟は、みんなから「慶ちゃん」と呼ばれていた。
一家は震災後、宝塚市に転居した。新しい家には、がれきの下から取り出した遺品が残されている。へその緒、母子手帳、通知表、プラモデル…。一月十七日から展示されるはずだった書き初めも。
当時を思いだす。弟を亡くした上に、生まれ育った町が燃える様子を見たショック…。号泣したのは、地震から四十日ほどしてからだった。
現在二十八歳。大学で民俗学を学び、今は実家を離れ総合研究大学院大学(研究室・千葉県)の博士後期課程に在籍する。震災の記憶の問題を考えるためフォーラムに参加し、神戸と行き来する。
「家族を失った悲しみを、他の人たちはどう受け止めているのか。自分たち『遺族』とはどんな存在なのか」
フォーラムがCAP HOUSE(神戸市中央区)で開催中の「いつかの、だれかに 阪神大震災・記憶の〈分有〉のためのミュージアム構想-展」で、蘇理は「遺族」である自身の記憶をテーマにした展示を手掛けている。
「慶ちゃんのこと」というその展示会場には、「慶ちゃん」の写真はない。代わってパネルを埋める一万一千字の文字。遺品や以前の住居跡、好物だったラーメンなどの写真四十点が添えてある。
文字は蘇理や両親、小学校の教師、同級生、知人のおじさんが「慶ちゃん」について語った言葉だ。蘇理が一人ひとりから聞き取った。自分の記憶を一方的に押し付けるのではない。多くの人の記憶から亡くなった一人の小学生の姿を浮かび上がらせる。
発見もあった。弟が父親に内証で知人におもちゃを買ってもらっていたこと。遺品の下敷きは同級生がくれたおみやげだったこと…。小さな逸話だが、どれも家族の知らない「慶ちゃん」だった。
「震災で亡くなった人たちは『犠牲者』とされる。だが、弟は何かのために死んだのではない。僕たちが大事にしたいのは、死んだ弟がどんな子だったのかということ」
蘇理は、弟について人と語り合ううちに「記憶が次第に豊かになるのを感じた」という。それは震災十年を機にようやく持てた「喪をともに過ごす時間」でもあった。
震災の遺族には、記憶の痛みに耐え続ける人がいる。「愛する人との死別など喪失体験による悲嘆」の深さを、英知大教授の高木慶子(心理学)は指摘する。
「震災ではさまざまな喪失体験が重複した。家族を失い、家を失い…。それだけに遺族の受けた傷は複雑です」
自身も神戸で被災し、直後から震災遺族のケアを続ける。「傷が癒えるには時間がかかる。信頼できる人とのかかわりを長く持ち続けること。多くの遺族に必要なのは、専門的な治療よりも、共感し合える相手や場ではないか」
やはり被災者で、災害ボランティア活動を続ける大阪大大学院助教授の渥美公秀(社会心理学)はこう話す。
「震災を機に『心のケア』への関心が高まった。だが、心が個人の内面にだけあると考えると、見えないものがある。心とは、他者との関係や対話ではぐくまれるもの。人と人との間に、心はある」
記憶の通い合いが「心」を育てる。ともに何かを想起し続ける行為が、記憶の伝承にもなる、と。
人と語り合っていったん外に開いた記憶。それはもはやその人だけのものではない。ただし、記憶への向き合い方は、人によって微妙に異なる。「人には話したくない」。身近な遺族のそんな言葉も、蘇理は耳にした。
語りたい気持ちと拒否する気持ち。自分の中にもその二つが交差する。「二十年後に語れることだってあるかもしれない」。そう考え、しばらくは距離をおいて記憶と付き合うことにしている。
=敬称略=(三上喜美男)
2005/1/20