宝塚市湯本町。武庫川沿いに高層住宅が建ち並ぶ旧温泉街の一角に、「ゼンカイハウス」はある。もともとは二階建ての四軒長屋。西隣の一戸が切り取られ、今は三軒になっている。建築家宮本佳明はここで生まれ育った。築約百年。父の代から住んできた。
屋内は少々複雑な構造だ。木造だが、建物を内側から支えるように、白い鉄骨が不規則に交差する。部屋中にギプスを巻き、つっかえ棒を立てたような印象だ。
一九九五年一月十七日。長屋は激震で一戸が大破し、「全壊」の判定を受けた。宮本も一時は公費解体を決意した。だが、建築家として「一方的に敷かれたレールに乗って、『解体』という建築の死に向けて流れていくこと」に疑問を感じた。何より「いくら新築しても、生家よりいいものは生まれない」
家は住人の思い出が積み重なった大切な「記憶の器」。宮本は生家の修理を決意し、鉄骨で補強、事務所として再生させた。
愛着のある壁、床、廊下はできるだけ残した。木の柱には、宮本が子どものころに付けた傷が残る。鉄骨による補強は、震災の記憶を伝える。それは出来事の痕跡を残すことで記憶を継承し、さらに新しい記憶を「重ね書き」していく作業でもあった。
都市もまた、こうした「重ね書き」や葛藤(かつとう)によって豊かな姿になると宮本は考える。
都市計画の過程で、地形や歴史、その時点で住む人のさまざまな思いがぶつかり合った結果が、風景を乱す「いびつな雑音(ノイズ)」として街に現れる。例えば、神戸市須磨区の「タンク山」。ニュータウンの中で浮かぶ島のような存在は、配水タンクがあったために開発の中で削られずに残された山林の痕跡だ。
「ノイズ」はなぜ出来たのか。その理由を読み解くことで、都市の記憶をたどり、豊かな気持ちになれる。宮本はそう提案する。
神戸市長田区。JR新長田駅前では、震災後に建設されたビルが高さを競う。整備された住宅地、巨大な商業施設、広場や公園もある。家屋が軒を連ねた下町の細い路地は拡幅された。震災の痕跡も次第に消えていく。
「全く知らない町になってしまった」
四十年来、長田の街を見続けてきた詩人、季村敏夫の素直な感想だ。風景は二度壊れた。地震の被害で、そして復興の大波の中で。これほど短時間で都市の風景が激変した例は、戦後ほとんどない。
「神戸は都市ではなくなった」と、被災地で十年にわたって都市計画、住宅政策を分析してきた神戸大教授の平山洋介は指摘する。
都市は、さまざまな立場の人が集うがゆえに「矛盾を抱えた不完全なもの」になる。そうした空間がさまざまな人々を受け入れてきた。特に下町は小さな住居に庶民が身を寄せ合い、「人情」や「ぬくもり」をはぐくんできた。
都市では、破壊と再生が常に交錯する。その過程が多様な意味を包み込む。移り行く都市の風景には、人々の記憶が織り込まれていく。
ところが、一連の復興では過去の空間があまり考慮されず、「防災」を主軸にした全く新しい空間が生まれた。大規模な“整理作業”。「人々の葛藤に目を向けず、街は深みを失った」と平山はいう。「風景が継続しなければ、記憶も継続しない」
下町の住民はバラバラになった。記憶が断絶された空白があちこちに出現した。
季村にとっての長田の記憶。それは、町工場の音。機械油のにおい。人々との濃密な空間…。今の長田の街は、かつての住民にどこかよそよそしく、戻りたい人を受け入れない姿になったと思う。
「人は安全のためだけに都市に住むのではない」と、自らの「記憶の器」を守った宮本は考える。
長田区の人口は震災前の約八割。約二千五百世帯が暮らしていた場所が更地のまま残る。震災十年-。“復興”は進んだと言われるが、かつての記憶を抱く風景は、街の中から遠のいて行く。新しい街に記憶を重ね書きする努力は始まったばかりだ。
一体、誰のための「器」なのか。都市は本来、そうした問いをはらみながら、変容していくべきものだろう。=敬称略=(仲井雅史)
2005/1/22