何でもない、現在の目からは何の変哲もない、風景写真。空き地が広がり、高速道路の向こうにぽつんと、高くそびえる建物が見える。
題名は「市内最大の仮設住宅跡地から震災復興住宅をのぞむ」。空虚な風景が、ぐらりと揺らぐ。
ロンドンを拠点に、戦争など「負の記憶」が刻印された場所をテーマとするアーティスト米田知子が撮影した、阪神・淡路大震災から十年後の芦屋の姿である。
震災の傷跡は見えにくくなった。しかし被災者にすれば、忘れられるものではなく、過去のものとすることもできない。「あの出来事をどのように語るべきか。震災との距離を測りあぐねている今の戸惑いを、見つめ直すしかない」と、米田の作品展を企画した芦屋市立美術博物館の山本淳夫は言う。
明石出身の米田にとって、神戸や阪神間の風景は愛着が深い。それが突然失われた瞬間は海外にいて、断片的なニュースでしか知ることができなかった。
「被災者でない自分が被災地を撮ることに、最初は不安を感じた」。だが昨年、芦屋を訪れたとたん、震災の痕跡がありありと見えた。
住宅展示場のような新しい家並みの間に、ぽっかりと口を開けた更地。草木の茂るにまかせた再開発された住宅地の一角。整然とした風景が、ほころびを見せている。
「劇的に撮ろうと思わなくても、違和感のある場所から記憶は噴き出してくる。そこで起こった出来事を強く想像することができる」
都市の廃墟を撮り続けていた東京の写真家宮本隆司は、震災から十日ほど後の神戸を撮影した。ビルが崩れ、家屋が焼け落ち、ガレキと化した街をフィルムに収めた。
それらは震災の翌年、ベネチア・ビエンナーレ建築展で、高さ五メートルの巨大プリントとなって、百メートルに及ぶ日本館の壁を覆い尽くした。宝塚で被災した建築家宮本佳明のガレキによる廃墟のインスタレーションなどとともに、この展示は「二十一世紀前夜の人類の苦悩を表現した」として、グランプリを受けた。
「誤解を招くかもしれないが、それほどすごい写真だとは思っていない」と宮本隆司は話す。歩いて、目の高さから見たままを撮った。テレビや報道写真には、もっと衝撃的なシーンがあふれている。
「ただ、これまでヨーロッパ各地で展示するうち、破れたり、折れ曲がったり、穴が開いたり、時間の痕跡が写真に刻まれた。これは、予想もしていなかった」
復興される実際の街と、印画紙の上で再び壊れていく被災した街。現実の風景に過去の風景を重ね合わせたとき、十年の時間的距離がはっきりと意識される。
しかし、震災の渦中にいた者は、また違う思いを抱いている。自らも被災し、資料の救出などに奔走した芦屋市立美術博物館の河崎晃一は宮本の写真を見たとき、「被災地は廃墟じゃない。われわれはそこに住まなくてはいけないのだから」と、言わずにはおれなかったという。
今月十七日まで、初めて神戸で巨大プリントを展示した宮本は「被災地の人には当然の感情」と受け止める。
ただ、宮本にとっても震災は「予定調和の中で行われる建築の解体とは全く違った、想像のできない破壊の光景」だった。「神戸でどんな反応があり、それを私がどう受け止めるか。決して完結したわけではない」
写真にとどまらず、美術や文芸、舞台と、震災の衝撃は多くの作品を生み落とした。だが、追悼や復興の「ため」でなく、必然的な表現がどれほどあったかと、美術家でもある河崎は問う。
河崎が、考え続けてきたことが一つある。あの日、停電によりテレビのニュースを見られなかった被災地の人こそ、何が起こっているのかを把握できない“空白”の状況にいたことである。
〔記憶・歴史・表現〕フォーラムのメンバーとして、河崎は、神戸・北野のCAP HOUSEで作品を展示している。床に置かれた数台のテレビモニターが、一月十七日の午前中のニュースを映し出す。「震災を扱う、最初で最後の作品」。それは、「そのとき、私たちが見なかったもの」と題されている。
「当事者」でさえ、震災の全体を分かっていたわけではない。被災地の内と外で起こった、現実との距離の落差。「そのギャップを認識し合うことが必要ではないか」
災厄の後で、現実との距離を感じつつ、それでも残された者は、記憶に形を与えようとする。そのとき、表現は力を持つ。=敬称略=(田中真治)
2005/1/19