かつて暮らしたマンションは昨年末、ようやく解体が終わった。大西きよさん(87)は十二年間、その建物の移り変わりを写真に残してきた。
神戸市兵庫区東山町。にぎやかなバス通りに面した十四階建ての「東山コーポ」(九十戸)は、阪神・淡路大震災で全壊判定を受けた。大西さんの部屋は十階にあった。地震の揺れで玄関ドアがゆがみ、室内にはあらゆるものが散乱した。夫の祥照(よしてる)さん=当時(79)=は、割れた照明器具の破片が目の上に刺さり、ひどく出血していた。
元気そうに見えた祥照さんが亡くなったのは、その三日後のこと。死因は心不全だった。
「トイレの前で『こけて起きられへん』言うて。いすに座らせたら、私の腕の中でそのまま…」
壁の穴から寒風が吹き込むマンションの集会室で、通夜を営んだ。
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東山コーポに入居したのは一九六八(昭和四十三)年。高度経済成長期の真っただ中だった。入居前、当時住んでいた近くの市営住宅から、カメラを手に建設現場を見に行くのが楽しみだった。
約四十八平方メートルの3DK。窓からは山も海も見えた。息子一人と娘二人を育て、婦人会の活動に精を出した。近くの市場に行けば、いつも顔なじみがいた。夫婦二人、穏やかな晩年がそのマンションで続くはずだった。
しかし、震災が住まいを奪い、夫を奪った。さらに、苦悩はそれだけでは終わらなかった。
九七年九月、大西さんを含む八割の所有者が賛成してマンションの建て替えを決議したが、その二週間後、補修を主張する九人(後に十一人)が「決議は無効」として裁判を起こしたのだ。
「円満に解決してほしい。それが一番の願いだったけれど」
大西さんは震災後一年余り東山コーポに住んだ後、長男が買ってくれた近くのマンションに移った。それでも、「東山に戻る」という思いはずっと変わらなかった。
裁判で「票の数え方に誤りがある」として「建て替え決議無効」の判決が出たのは、震災から六年後。再び建て替えが決議されたのは、さらに三年十カ月後。震災から十年近くが過ぎていた。
その間も、今の住まいから歩いて数分の東山コーポに通い続けた。解体前の昨年二月まで、十階の部屋には夫の写真を飾り、花を供えていた。「お父さんはそこが懐かしいだろうから」
コーポに住み続けている住民もおり、ごみステーションの掃除も変わりなく続けた。
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三年前、さらに深い喪失が大西さんを襲った。長男の照夫さん=当時(56)=の死。突然の病に倒れ、最期を迎えるまでの約十カ月間は、今住んでいるマンションで一緒に暮らした。
「ここには、息子の思い出がありすぎる。東山コーポに戻るのは、区切りをつけたいということもあるの」
新マンションの完成は〇八年二月。あと一年、待たねばならない。
「それまで、生きとらなね」
息子が買ってくれたカメラを手に、かつてのわが家への道を歩く。アルバムに、十三年目という新しいページが加わろうとしている。
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阪神・淡路大震災の被災地では、今なお四件の分譲マンションが再建途上にある。震災で深刻な課題となった集合住宅の復興。四件のうち、住民同士の裁判となった三件の軌跡をたどる。
(記事・磯辺 康子、写真・大山伸一郎)
2007/1/14