阪神・淡路大震災の被災地でただ一つ、今も再建に着手できていないマンションがある。
宝塚市高司の「宝塚第三コーポラス」(五階建て、百三十一戸)。一九七四年に建設され、震災では「半壊」の判定を受けた。
震災前、所有者で組織すべき「管理組合」すらなかった。賃貸の入居者らも含む「自治会」があるだけだった。マンション再建は、管理組合をつくることから始まった。
◆
自営業の山口正治さん(47)は、震災時の自治会長。その後発足した管理組合の理事長も十二年間、務めてきた。
八七年にマンション一階の部屋を購入した。震災前年には母のため、もう一部屋買った。ローンは合わせて約二千万円残っていた。
「なんて運が悪いのか。それは、思いますよ」
震災の四カ月後、業者は補修の見積もりを一戸約五百八十万円とした。その額の大きさに、建て替えを望む住民が増え、九七年十一月には約九割の賛成で建て替えを決議した。翌月、補修派の住民二人が提訴。「決議は有効」とする大阪高裁判決が確定するまで、六年以上かかった。
進まない復興に、多くの住民は生活拠点を移していった。山口さんも震災の三年後、三木市に家を買った。マンション一部屋分のローンは完済したが、残高は四千万円を超えた。
そんな中でも、管理組合の理事長は続けてきた。
「組合発足のとき、役員に『こんな事業は一生に一回。やり遂げよう』と言った。自分が背を向けるわけにはいかない」
◆
住民が去り、時間が止まったような宝塚第三コーポラスで、今も一人、生活を続ける女性(72)がいる。裁判の原告二人のうちの一人。裁判は負けたが、その後、建て替えの具体的計画が決まらず、自分の転居先も見つからないため、住み続けている。
「『補修できる』という思いは変わらない。悪いことをしているわけじゃないから、一人でも怖くない」
裁判は「主張を記録に残す」という意義があったと思っている。震災後、公費解体などの建て替え支援策が打ち出される一方で、補修への支援が乏しかったという問題点も指摘した。
「いつか出なければならない」という今の生活は、落ち着かない。しかし、家賃を払う生活になれば、年金収入しかない身には負担が大きい。
「ここは『ついのすみか』と思っていた場所。出て行けといわれるまで、住むつもり」
◆
裁判の決着から間もなく三年。二年前、兵庫県住宅供給公社が建て替え案を示したが、一戸あたりの買い取り価格はわずか百六十万円だった。競売で住宅を入手した不動産業者も含め、五戸がその案に反対し、事業は流れた。
管理組合の総会で、あらためて建て替えの「方針」を決め、動き始めたのは昨年十一月。今年、県公社の協力を得て再び、新たな計画作りを進める。
「でも、ほとんどの人が戻れない。再建とは名ばかりの、つらい清算事業」。山口さんはつぶやいた。
震災から十三年目。被災地最後のマンション再建事業にはまだ、いくつものハードルがある。震災は、終わっていない。
(記事・磯辺 康子、写真・大山伸一郎)
=おわり=
2007/1/19