瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の一つ、生口島(いくちじま)=広島県尾道市。
岡本邦雄さん(64)は六年前、この島に喫茶店を開いた。船をイメージした外観と店内の装飾。入り口には、港町・神戸を描いた小さな絵が置かれている。
阪神・淡路大震災が起きた十二年前、岡本さんは神戸市灘区のマンションにいた。六甲のふもとに立っていた「グランドパレス高羽」(十二階建て、百七十八戸)の九階。あの二十秒の揺れで、外壁にはいくつもの亀裂が走り、鉄筋がむき出しになった。
妻の千鶴子さん(59)、三人の子どもとの思い出が詰まった「わが家」。その建物は昨年、取り壊された。
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岡本さんは生口島で生まれ育った。震災当時、実家には母が一人で暮らしていた。神戸の一家を案じ、一カ月で十三キロもやせた。
古里で老いていく母。一方で、息子二人と娘は、避難生活を機に独り立ちした。大阪の商社で働いていた岡本さんには、東京への転勤話が持ち上がった。
「東京へ行くか、広島へ戻るか。家内は『東京には行きたくない』と」
定年も近づいていた。会社を辞め、夫婦二人で帰郷準備を始めた。岡本さんは運転免許を取り、中古の車を買った。灘区内に借りていたマンションを後にしたのは震災の五年後だった。
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古里で生活を始めた後もグランドパレス高羽は復興のめどが立たなかった。
管理組合総会で建て替えを決議した後の一九九七年四月、補修を望む住民十人が「決議は無効」として提訴。一審・神戸地裁、二審・大阪高裁とも「決議は有効」としたが、原告住民は最高裁に上告していた。
広島に戻った当初は車を飛ばし、神戸によく出かけた。千鶴子さんは神戸っ子。なじみの店や友人も多い。しかし、かつての「わが家」には近づかなかった。
「見たくない」と千鶴子さんは言った。岡本さんも用事がなければ足を向けなかった。震災後、電車の中から山手側に傷ついたマンションが見えるのが苦痛だった。「いつまで残ってるのか」と気持ちが沈んだ。電車内で、海側を向いて立つ習慣が身についた。
裁判の決着は、震災の八年後。最高裁が、補修派側の上告を棄却した。
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夫婦で、震災の話はしない。広島では幸い、震災のニュースも少ない。広島に戻った翌年の「芸予地震」の方が、よく話題になる。
「十二年といえば『一昔前』。グランドパレスのことも、歴史の一ページ」
子どもたちは結婚。昨年、岡本さんの母と千鶴子さんの父が相次いで亡くなった。生活はめまぐるしく変わった。マンションは来年再建されるが、暮らしの基盤は完全に広島に移り、もう戻ることはできない。
それでも、神戸の街への愛着だけは消えていない。
「自分たちが、『人生のど真ん中』を過ごした場所だから」
岡本さんの車は今も神戸ナンバーのまま。夫婦の会話に「震災」はなくても、「神戸」はいつもある。遠く離れたもう一つの古里。その港町の香りが、島の暮らしに漂う。
2007/1/16