「生きているのではなく、生かされている」
兵庫県淡路市小倉の北淡震災記念公園で、阪神・淡路大震災で自宅が全壊した向井規子さんが、全国から訪れる子どもたちに体験を伝える。二年前、元教員の父正規さん(83)から語り部活動を引き継いだ。
被災直後の自宅周辺が写った航空写真を示す。生き埋めになった跡の穴が小さく見える。「私はここからもう一度生まれてきたの」。子どもたちは驚く。
◆
旧北淡町(兵庫県淡路市)富島の古い木造二階建ての自宅で、母喜久さん(78)と三人暮らしだった。
震災発生時、二階で就寝中だった。一階はつぶれた。規子さんは崩れた屋根の下にできた約一メートル四方の空間に閉じ込められた。外から正規さんが呼び掛ける声が聞こえた。「もし火がきたら」。恐ろしかった。
暗闇の中、正規さんがノコギリを探し、規子さんの頭上の木材を切って助け出した。けがはなかった。喜久さんも軽いけがで済んだ。
しかし、同市野島蟇浦にいた喜久さんのおば=当時(80)=が犠牲になった。前日も富島の家に遊びに来ていた、規子さんにとっても親しい人だった。
◆
正規さんは一九九九年四月、同公園で語り部活動が始まった当初から参加した。きっかけは、かつての教員仲間の誘いだった。
二〇〇一年と〇二年、大病をし手術を相次いで受けたが、「語らなければ」との思いは消えなかった。手術の影響で声がかすれたが、写真パネルに説明文を増やすなどの工夫をし、語り部を続けた。
〇四年九月から週数回の人工透析を受けることになり、活動が難しくなった。
規子さんは、震災前から富島と岩屋で学習塾を経営していた。震災後の一月二十八日、避難先の家で塾を再開した。避難所にいた子らも呼んだ。ビンゴゲームなどをした。一人の子どもの言葉が忘れられない。「空のペットボトルを持って帰りたい。水筒がわりにするねん」。逆に元気をもらった。
そんな姿を見ていた正規さんが、語り部活動を持ちかけた。「おまえ、するか」。言葉少ななバトンタッチだった。
◆
同公園の語り部は、当初の十八人から、現在は十六人に。八十六歳を筆頭に、大半が七十歳以上と高齢だ。
同公園・野島断層保存館の米山正幸副館長(40)は、自ら語り部となり、消防団員として救助活動などにあたった経験を話す。「以前は観光地の一つとして訪れる人が多かったが、防災について学ぼうとする人も目立つようになった」と感じる。昨秋には、南海地震に備える高知県春野町に呼ばれ、講演する機会も生まれた。
今、規子さんは思う。「語らないだけで、苦しい思いをしまい込んでいる人がいる。震災は終わったわけじゃない」
◆
昔ながらの港町が壊滅的な被害を受けた淡路市富島地区。暦が一回りし、十三回忌を迎える今も復興土地区画整理事業が続く。まちの人たちの歩みを振り返る。
2007/1/14