震災当時、中学二年生だった宗和寿美(そうわ ひさみ)さん(26)は、救援の食糧を受け取りに行った富島小学校で、ボランティア募集のチラシを渡された。
体育館には、全国から寄せられた救援物資やボランティアらが集まっていた。多くの人の助けが心強かった。
「自分も役に立ちたい」。もともと、積極的に行動するほうではなかった。何ができるかなど、分からなかった。友人を誘った。
◆
宗和さんは漁師一家。祖母、両親、兄たち、兄の妻、妹と八人で富島の密集住宅街に住んでいた。木造二階建ての家は、柱が大きくゆがみ、屋根が崩れたが、家族は無事だった。
避難所となった北淡町民センター(現淡路市北淡センター)で約一週間過ごし、港ののり工場に移った。鉄骨二階建て。仕上がったのりを束ねるのに使っていた一階の部屋と、新たに畳を入れた二階の一間で、身を寄せ合った。
その後、仮設住宅へ。ボランティアに参加したのは、そうした最中だった。
社会福祉協議会の職員や島外からやってきた大学生らとともに物資の仕分けをした。茶わん、はし、スプーン、布団-。訪れた住民に手渡した。春休み、毎日のように通った。
中学三年生の夏、仮設住宅で被災者らが交流する夏祭りの運営を手伝った。焼きそばを作ったことを思い出す。
◆
高校を卒業後、神戸の専門学校で福祉を学んだ。神戸市内の特別養護老人ホームで働き、介護福祉士の資格を取った。職場では、長年慣れ親しんだ自宅や地域に戻りたいと願うお年寄りの声をたびたび聞いた。
二〇〇六年春、兵庫県淡路市斗ノ内の「津名養護老人ホーム北淡荘」の臨時職員となり、富島に戻った。区画整理の対象世帯向けの住宅で家族と暮らしている。祖母は米寿を超えた。
月一、二回、仕事を終えた夜、市社協北淡支部で開かれる学習会「気づきの広場」に顔を出す。
障害者や高齢者が住み慣れた場所でよりよく生きるにはどうしたらいいか考え、議論する。二月には、野宿生活者の現実を知るため大阪市西成区を訪ねる予定だ。
同支部長で社会福祉士の凪保憲(なぎ やすのり)さん(36)は震災当時、宗和さんの面倒を見た一人。「あのときの経験がきっかけで福祉の道に進んでくれたのなら、うれしい」
震災を契機に市民活動の輪が広がったが、島内は少子高齢化が進む。宗和さんはいう。「生まれ育った北淡地域に密着した仕事をしていきたい」。これからを支える世代の一人の言葉だ。
2007/1/15