「火さえ消してくれとったら、家族は生きられたんや」
罵声(ばせい)とともに、消防士の野村勝さんに向かって灰皿が飛んだ。背後の壁に当たり、床に転がった。
向かいに座っていた六十歳くらいの男性。厳しい目をしていた。
阪神・淡路大震災から間もない一九九五年三月。長田区役所での復興街づくりの会合に、住民の野村さんは出席した。街のあちこちにがれきが残り、大火の跡が生々しかった。
「やることはやった。仕方がなかったんや」
皆が震災当日を語る中で述べた野村さんの言葉が、男性の怒りを買った。
十三年前、野村さんは五十六歳。一月十七日は垂水消防署の消防司令補として当直に就いていた。激しい揺れで机もテレビもひっくり返った。十二人ほどいた隊員に、出動態勢を命じた。
「ガス漏れや」。六時前に住民が駆け込んできた。現場に急行。最大音量で火を使わないよう叫び続けた。
消防無線は信じられない現実を伝えていた。「塩屋町で倒壊家屋の下敷き」「長田、兵庫、須磨、灘、東灘で火災」「長田に応援に向かえ」-。
神戸市長田区は火の海だった。放水しようにも消火栓の水が出ない。無線で応援を求めたが応答なし。「はよ消さんかい」「何とかして」。市民の悲鳴が突き刺さる。防火水槽を求めて歩き回るが、その間も炎は街を焼き尽くしていった。
二週間後の非番の日、長田の街を歩いた。菅原市場付近で、骨と思われる小さなかけらがあった。手を合わせることしかできなかった。
区役所の会合をきっかけに、野村さんは自分の職業を口にしなくなった。
火災にどうすることもできず、多くの住民が亡くなった。「あの時こうしていれば」と何度も自問した。長田の現場が頭から離れず、眠れぬ夜が続いた。
震災から二年たった九七年二月、母校の徳島県立辻高校の同窓会の便りが届いた。「野村が震災でえらい目に遭ったらしい」。同級生は皆知っているようだった。
県立三好病院で総婦長の川原セツ子さんは電話で野村さんに頼み事をした。「同窓会の前に、震災の話をしてくれへんやろか」
神戸から離れたふるさとなら、少しは話せるかもしれない。野村さんは看護師や同級生約六十人の前に立った。
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あの日の神戸を伝える人たちがいる。十三年をたどるため、語り部たちに繰り返し尋ねた。なぜ語り始めたのですか、なぜ語り続けるのですか。
(中川 恵)
2008/1/15