「多分、だれも分かってくれない」
阪神・淡路大震災当時、小学校教諭だった吉田悦子さん(62)は、ずっとそう思っていた。
一月十七日。朝五時ごろ起き、須磨区の自宅の和室でお湯を沸かしていた。突然の地鳴りと激しい揺れ。慌てて外に飛び出した。
空が白む頃、家に戻った。木造二階建ての家は、ほとんどの瓦が落ちていた。和室の土壁が骨組みだけになっていた。
避難所で初めて右足首に痛みを覚えた。触ると皮がむけた。逃げる時、熱湯を浴びていた。
この家にはもう住めない、いや住みたくない。二日後、神戸市北区のマンションに逃げるように引っ越した。持ち出したのは当面の衣類や食料品だけ。段ボール箱を机代わりにした。
勤め先の神戸市北区の小学校は一週間、休校になった。やけどは思ったよりも重く、神戸市須磨区や神戸市長田区の避難所にボランティアに向かう同僚を、後ろめたい気持で見送った。
六月、自宅が取り壊された。だが家財やアルバムを取り出す気もわかなかった。家が壊れた恐怖がまだ残っていた。
自身の被災体験を心の奥にしまい込んだ。震災から二、三年がたっても、受け持ちの児童や同僚に伝えられなかった。
「子どもがショックを受けるかも」というためらいも確かにあった。でも、あの揺れを経験していない人には、話しても分かってもらえないだろうし、うまく伝える自信もない。そんな気持ちが勝っていた。
「市民のかけ橋」と名付けられた語り部事業を知ったのは、二〇〇四年夏。吉田さんは神戸市西区の竹の台小学校で、六年二組を受け持っていた。震災から九年がたっていた。
「十年の区切り。裏方として携わりたい」と応募、〇四年九月に実行委員になった。ところが、吉田さんも語り部になることで話し合いが進み始めた。
あまり苦労していない私の被災体験が果たして必要なのか。もし話し始めてもきちんと伝えられないかもしれない。
もやもやした気持ちで十月を迎えると、修学旅行という大切な行事が待っていた。
初日の行き先は、広島の平和記念資料館だった。
2008/1/19