一九九七年二月、垂水消防署の消防司令補、野村勝さん=神戸市長田区=は、徳島県池田町(現三好市)の県立三好病院にいた。目の前の看護師や同級生約六十人に「消防士です」と名乗った。
「神戸やないし、ありのまましゃべっても大丈夫やろう」。腹をくくった。
二年前の一月十七日の神戸市長田区。「さっきまで『助けて』と声がしたんです」と救助を求められたこと。手にしたホースからはわずかの水しか出なかったこと。怒りに任せた市民から突き飛ばされたこと。「それでも私は何もできませんでした」。静まりかえった研修室で、声を詰まらせながら話は続いた。
救命という同じ仕事に携わる人たちに、問いかけずにはいられなかった。
「当直の時に地震が起きたら医師とどのように連絡を取りますか」「この病院は担架の数は足りてますか」「非常用の照明の燃料はありますか」
話し終わった後、しばらく拍手がやまなかった。
二〇〇四年に「市民のかけ橋」という事業が始まり、神戸市民が全国各地で被災体験や教訓を話すことになった。定年退職した野村さんに、市の担当者から声がかかり、即座に応じた。「語り部」となった四十二人は全国五十一カ所で「あの日」を語った。
野村さんは、講演のたび、安心と安全の街の大切さを繰り返す。
「命を守るため、一人一人に考えてほしい」
語るべきことは山ほどある。
事業が終わった後も、野村さんら十三人は、語り部を続けている。
震災後に発足した細田・神楽まちづくり協議会の会長も務めている。引き受けて十三年目。区画整理事業は完了し、今後は新旧住民の交流が課題だ。地域にあるせせらぎは、野村さんが設置を強く望んだもの。火を消せなかった無念を忘れたことはない。
あの大火を前に何もできなかった自分に、これから何ができるのか。
昨年一年間、二十七カ所で震災を語った。今月下旬は愛知と滋賀に向かう。あの日、消防士として全うできなかった職務を果たすために。
2008/1/16