二〇〇四年十月、広島平和記念資料館。竹の台小(神戸市西区)の教諭吉田悦子さんと六年生児童約百人の前に、一人の語り部の女性がいた。
七十歳代後半。戦時中学徒動員で工場で働いた。妹は別の工場だった。
一九四五年八月六日、原爆が投下された市街地を逃れ、友達と山の方へ向かった。途中の川は、水を求めて息絶えた人が折り重なっていた。
頂上に着くまで妹のことが頭から抜け落ちていた。同じように逃げたはず。そう言い聞かせて、街に戻らなかった…。
「今も行方不明のままなんです」
謝罪と後悔が痛いほど伝わってきた。子どもたちもかたずをのんで聞いていた。秘めてきた苦しみを伝える勇気。吉田さんは思った。「私も話そう」。
〇五年二月、岡山県倉敷市であった防災の勉強会に、阪神・淡路大震災の語り部として吉田さんら数人が招かれた。人前で被災体験を話すのは初めて。震災から十年がたっていた。
わずか十五分。家が壊れ、足にやけどをした。その程度しか話せなかったが、少しだけ荷物を下ろせた気がした。
その年の秋、愛知県犬山市の中学校。吉田さんの前には、生徒や保護者ら二百人がいた。「今を生きる」が演題だった。
家を手放したつらさ、引っ越しを手伝ってくれた同僚への感謝、命が助かったことの不思議。さまざまな人たちが頭に浮かび、何度も言葉に詰まった。
「六千人以上が亡くなったことを忘れないでほしい」
初めて心の内を言葉にできた。
吉田さんは定年後も、臨時講師として小寺小(神戸市西区)で教壇に立つ。〇六年から毎年一月十七日、全校児童約五百人に話しかけている。
「家族そろってご飯を食べる。当たり前のようなことが実は一番幸せなんだよ」
〇七年、三年生の児童がある作文を残した。
〈命がいつなくなるかだれもわからないから、毎日友だちととうこうしたり遊んだりできるのは、生きているときだけなんだなあと思いました〉
震災を知らない彼らの心のどこかに残れば。そんな思いで話している。
2008/1/20