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(5)増井弥生さん(民生委員) 人とのつながり、命救う
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「私たち家族は、そのバスケットボールのゴール下で過ごしました」。生徒にあの日を伝える増井弥生さん=東灘区田中町4、本山南中
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「私たち家族は、そのバスケットボールのゴール下で過ごしました」。生徒にあの日を伝える増井弥生さん=東灘区田中町4、本山南中

「私たち家族は、そのバスケットボールのゴール下で過ごしました」。生徒にあの日を伝える増井弥生さん=東灘区田中町4、本山南中

「私たち家族は、そのバスケットボールのゴール下で過ごしました」。生徒にあの日を伝える増井弥生さん=東灘区田中町4、本山南中

 阪神・淡路大震災の朝、増井弥生さん(54)の神戸市東灘区田中町の自宅は二階部分が北側に大きく傾いた。

 夫と二人の子ども、同居する義理の父母の六人で近くの中学校に身を寄せた。体育館は避難した人で埋まっていた。

 被害が激しかった神戸市東灘区。田中町は、隣接の甲南町を含めると、百四十人以上が犠牲になった。

 「家がつぶれてたから心配したよ」「先生、あちこち避難所を探し回ったで」

 義父の清次さんの周囲に人が集まった。税理士で、田中町の民生委員を長く務める地域の顔役だ。慌てて自宅の門に「本山南中の体育館にいます」と張り紙をした。

 翌月、増井さんらは神戸市北区の仮住まいへ移ることになった。「自分を頼ってくる人がいる」と、清次さんは頑として耳を貸さなかった。

 自宅庭に四畳半のプレハブを建てた。「いつでも相談できるように」。自宅から取り出した電話を引いた。仮設住宅から通い、日中過ごした。知り合いがたびたび訪ねてきた。

 「ここで頑張らなあかん」

    ◆

 二〇〇一年、七十五歳を迎えた清次さんは民生委員を退き、増井さんが引き継いだ。清次さんは〇六年三月に亡くなった。

 震災後、フラワーアレンジメントを習った。近くの老人ホーム二施設で月一回、教室を開く。

 語り部事業にも応募した。昨年四月に奈良県であった民生委員の勉強会に、震災語り部として呼ばれた。がれきの中、普段から見守っている住民を探す委員たちのあの日を語った。地元に残った父を思い出した。

 引き受けて七年目。地区の祭りでは、みそ汁やおにぎりを作り、だんじりの引き手たちを支えた。十二月は三王神社のもちつきで、お年寄りに配るもちを丸めた。みな民生委員の仕事だ。

 人と人がつながっていれば、命を救うことができる。語り部としてそんな話をしている。

 今年の一月十七日は、あの日避難した本山南中学校の体育館で生徒たちに話した。

 「もし災害が起きたらどうするか、家族や友達と話をしてほしい」

 神戸の街は震災から十四年目に入った。

 庭に立つプレハブを増井さんはきっと忘れないだろう。(中川 恵)

=おわり=

2008/1/21
 

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