阪神・淡路大震災の朝、増井弥生さん(54)の神戸市東灘区田中町の自宅は二階部分が北側に大きく傾いた。
夫と二人の子ども、同居する義理の父母の六人で近くの中学校に身を寄せた。体育館は避難した人で埋まっていた。
被害が激しかった神戸市東灘区。田中町は、隣接の甲南町を含めると、百四十人以上が犠牲になった。
「家がつぶれてたから心配したよ」「先生、あちこち避難所を探し回ったで」
義父の清次さんの周囲に人が集まった。税理士で、田中町の民生委員を長く務める地域の顔役だ。慌てて自宅の門に「本山南中の体育館にいます」と張り紙をした。
翌月、増井さんらは神戸市北区の仮住まいへ移ることになった。「自分を頼ってくる人がいる」と、清次さんは頑として耳を貸さなかった。
自宅庭に四畳半のプレハブを建てた。「いつでも相談できるように」。自宅から取り出した電話を引いた。仮設住宅から通い、日中過ごした。知り合いがたびたび訪ねてきた。
「ここで頑張らなあかん」
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二〇〇一年、七十五歳を迎えた清次さんは民生委員を退き、増井さんが引き継いだ。清次さんは〇六年三月に亡くなった。
震災後、フラワーアレンジメントを習った。近くの老人ホーム二施設で月一回、教室を開く。
語り部事業にも応募した。昨年四月に奈良県であった民生委員の勉強会に、震災語り部として呼ばれた。がれきの中、普段から見守っている住民を探す委員たちのあの日を語った。地元に残った父を思い出した。
引き受けて七年目。地区の祭りでは、みそ汁やおにぎりを作り、だんじりの引き手たちを支えた。十二月は三王神社のもちつきで、お年寄りに配るもちを丸めた。みな民生委員の仕事だ。
人と人がつながっていれば、命を救うことができる。語り部としてそんな話をしている。
今年の一月十七日は、あの日避難した本山南中学校の体育館で生徒たちに話した。
「もし災害が起きたらどうするか、家族や友達と話をしてほしい」
神戸の街は震災から十四年目に入った。
庭に立つプレハブを増井さんはきっと忘れないだろう。(中川 恵)
=おわり=
2008/1/21