土地の一部を差し出した。対立が重なった。帰れなかった人もいる。阪神芦屋駅の北側に広がる兵庫県芦屋市の「中央」「西部第一」「西部第二」の3地区。阪神・淡路大震災の土地区画整理事業で街並みは変貌し、震災の痕跡を探すのは難しい。今や、阪急沿線だけでなく、良好な住環境で知られる「芦屋ブランド」を体現する一角になった。再生した街。それは住民の苦悩と決断の軌跡でもあった。(斉藤絵美)
カフェや洋服店が集まり、休日は人気のベーカリーに女性らが列をなす。桜並木に低層の住宅が映え、公園では親子の歓声が響く。
「公園の一本一本の木まで皆で決めて。いい町になったんじゃないですか?」
そう話すのは西部第二地区の森圭一さん(72)=芦屋市。震災前、西部地区は木造の一戸建てやアパートが密集。駅北東の中央地区は二つの商店街と一つの市場からなり、地域の台所として親しまれた。細い路地が入り組み、主婦は井戸端会議を楽しみ、子どもは車を気にせず遊べた。
しかし、震災で町は一変する。古い民家は1階がぺしゃんこになり、商店街のアーケードは倒壊。全半壊率は85%を超え、多くの人が亡くなった。森さんの自宅も全壊。1階にいた母の美代さん=当時(73)=が圧死した。友人宅に身を寄せ、片付けに追われる中、うわさを聞いた。「ここが区画整理になるらしい」
◇ ◇
震災から1カ月がたった1995年2月23日。「テント村」と呼ばれ、被災者が避難した西部第二地区の津知公園で、区画整理が告げられた。住民説明会で市が配った構想図には、住宅の上に公園や広い道路が勝手に描かれていた。
「冗談やない」「人の土地の上に何しとるんや」
憤る住民に市職員は「道路や公園が広くなって、災害に強い街になります」と繰り返した。森さんも「市が一方的に決めるのはおかしい」と声を荒らげた。
区画整理事業は、国から多額の補助金を受けて、計画的に街を整備する。地権者から少しずつ土地の提供(減歩)を受け、道路や公園などに充て、宅地は再配置(換地)される手法だ。
しかし、住民には建築制限が課される。幅広い道路は交通量が増え、地価が上がれば固定資産税もかさむ。戦災復興の区画整理を終えた地区もあり、「敷地を削ってまで」と反発した。
自力再建の支援策は限られていた。阪神・淡路を教訓に、被災者に最大300万円が支給される被災者生活再建支援法は当時なかった。行政主導の区画整理は県内18地区で導入された。
芦屋市はノウハウが乏しく、構想図は県の外郭団体が作った。津知公園で住民と向き合った市の主幹に丸尾進さん(72)がいた。「みんなで街づくりをしましょう」。泣いてお願いした。
◇ ◇
1カ月後の3月17日、区画整理事業が都市計画決定される。西部地区の森さんは反対し、住民の会を発足した。中央地区では住民が分裂。借家人は権利すらなく街を去った。震災から2カ月。長い道のりの始まりだった。
2019/12/2