通りの向こうに、カトリック芦屋教会の尖塔(せんとう)が見える。阪神・淡路大震災の復興土地区画整理事業が行われた阪神芦屋駅北側の「中央地区」。兵庫県芦屋市大桝町の東西を貫く道路には、震災まで「甲陽市場」があった。
1925(大正14)年に開設された同市場。戦後の最盛期は40軒以上がひしめき、にぎわった。震災に遭ったのは、大型スーパーが近郊に進出し、空き店舗が目立ち始めた頃だった。
家主には、区画整理は好機とも映った。市場組合の会合で、家主側は土地を手放すと表明。一帯は震災から1年後、施行主「住宅・都市整備公団」(現・都市再生機構)に売却された。
区画整理は、最も立場の弱い人も浮き彫りにした。「借家人」だ。存続できなかった甲陽市場は、賃貸の住宅兼店舗で商売をする人たちが街を去っていった。
「運命共同体というか、密度の濃い関係があった」。母と八百屋を切り盛りした粟木原(あわきはら)光彦さん(67)は市場を懐かしむ。今は国道43号を挟んだ南側の竹園町で店舗を構えず、常連客らに野菜を配送する。「時々あの頃を思い出すんです。皆、元気にやってるかな」
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「長年の生活基盤を失ってしまう」。甲陽市場の借家人へのアンケートでは、半数以上が現地での商売の再開を希望していた。
借家人たちは家主側に、市場が続くよう要望書を出したが認められなかった。区画整理事業に参加できるのは、土地や建物の所有者だけ。借家人は意思表示すらままならなかった。
中央地区では、借家人ら住まいを失った人に「受け皿住宅」が2カ所に計54戸用意された。しかし、いずれも地区外だったため、戻ることを諦めた人は多い。
甲陽市場で日用品の店を営んでいた畑野則雄さん(81)も店を畳まざるを得なかった。避難所や仮設住宅を経て、南芦屋浜の陽光町に建てられた復興住宅に落ち着いた。震災から25年近く。「再建のしようがなかったか」と自問する。
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甲陽市場は、広い道路と、中央地区で最も大きな大桝公園の一部になった。
かつての店に近い場所にある「甲陽書房」は市場の名を残す。商売を続ける田辺幸子さん(79)=大桝町=も問いかける。「きれいな街になったけど、店はばらばらになった。商売人の心もばらばらと違う?」
多くの人が住み慣れた土地を離れ、新住民が流入した。中央地区の人口は震災前とほぼ同じ約1800人に回復している。ただ、街の姿と暮らす人は大きく変わった。(風斗雅博)
2019/12/5