土地区画整理事業は町並みを抜本的につくり変えられる反面、時間がかかる。
行政主導の計画に反発が強かった兵庫県芦屋市の西部地区は、阪神・淡路大震災から半年後に「住民の会」を発足させた。「まち再興協議会(まち協)」への移行後も、「区画整理を前提としない街づくり」を掲げ、大学教授らと議論を始めた。
毎週土曜の夜、地区の代表者が膝をつき合わせた。10地区に分かれてワークショップを重ね、道路一つ一つの道幅までを考えた。
「この地の歴史性を生かしたい」「車中心の住環境は反対や」。住民の声で、地下水路となった津知川を再現しようと、地下水をくみ上げ、公園にせせらぎを設けた。車が通過するだけの街にしないよう、区画整理でしばしば見られる碁盤の目だけでなく、曲がりくねった道路ができた。被災を免れた樹木は再び移植し、緑地もちりばめた。
それでも、自分の家の前となると意見がまとまらなかった。「誰かが妥協しないといけない。徹底的に話した」とは、まち協の事務局長だった森圭一さん(72)=川西町。住民に頭を下げて回った。住民投票で6割の賛成を得て、街の将来図が完成したのは、震災から2年半後の夏だった。
◇ ◇
街のあり方を丁寧に模索し続けるほど、事業は長引いた。津知町の仲本慶子さん(80)は、自宅の土地が公園の一部になった。仮設の住宅さえ建てられない。市から「転居してください」と言われるたび、荷物をまとめた。避難所や仮設住宅、市営住宅など5カ所を転居し、自宅を再建できたのは2003年10月。震災から8年がたっていた。
別の女性は、自宅再建に11年1カ月を要した。5人家族で、引っ越しは9回。仮住まいの間に蓄えは尽きた。町に戻りたがった義母は再建の2年後に、夫は4年後に亡くなった。「区画整理なんてやらなければよかった」。今は西部地区に独りで暮らす。
◇ ◇
街に戻れなかった人もいた。事業に参加する権利がない借家人は、家主の意向に従うしかなかった。
中央地区の借家で商売をしていた畑野則雄さん(81)は、家主から土地の売却を伝えられた。住み慣れた土地を離れ、妻の千代乃さん(77)と南芦屋浜の市営住宅に移り住んだ。
震災前まで、畑野さんが日用品の店を構えていたのは地区の「甲陽市場」。この市場も区画整理で消滅した。最近は足腰が弱り、以前暮らした街に足を運ぶことはなくなった。(斉藤絵美、風斗雅博)
2019/12/4