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区画整理事業でなくなった甲陽市場を去り、ついのすみかとなった市営住宅の前を歩く畑野則雄さんと妻の千代乃さん=芦屋市陽光町(撮影・風斗雅博) 住民が将来の街の姿を話し合った「まち再興協議会」の会合=1999年、芦屋市内(西隆広さん提供)
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区画整理事業でなくなった甲陽市場を去り、ついのすみかとなった市営住宅の前を歩く畑野則雄さんと妻の千代乃さん=芦屋市陽光町(撮影・風斗雅博)

住民が将来の街の姿を話し合った「まち再興協議会」の会合=1999年、芦屋市内(西隆広さん提供)

  • 区画整理事業でなくなった甲陽市場を去り、ついのすみかとなった市営住宅の前を歩く畑野則雄さんと妻の千代乃さん=芦屋市陽光町(撮影・風斗雅博)
  • 住民が将来の街の姿を話し合った「まち再興協議会」の会合=1999年、芦屋市内(西隆広さん提供)

区画整理事業でなくなった甲陽市場を去り、ついのすみかとなった市営住宅の前を歩く畑野則雄さんと妻の千代乃さん=芦屋市陽光町(撮影・風斗雅博) 住民が将来の街の姿を話し合った「まち再興協議会」の会合=1999年、芦屋市内(西隆広さん提供)

区画整理事業でなくなった甲陽市場を去り、ついのすみかとなった市営住宅の前を歩く畑野則雄さんと妻の千代乃さん=芦屋市陽光町(撮影・風斗雅博)

住民が将来の街の姿を話し合った「まち再興協議会」の会合=1999年、芦屋市内(西隆広さん提供)

  • 区画整理事業でなくなった甲陽市場を去り、ついのすみかとなった市営住宅の前を歩く畑野則雄さんと妻の千代乃さん=芦屋市陽光町(撮影・風斗雅博)
  • 住民が将来の街の姿を話し合った「まち再興協議会」の会合=1999年、芦屋市内(西隆広さん提供)

 土地区画整理事業は町並みを抜本的につくり変えられる反面、時間がかかる。

 行政主導の計画に反発が強かった兵庫県芦屋市の西部地区は、阪神・淡路大震災から半年後に「住民の会」を発足させた。「まち再興協議会(まち協)」への移行後も、「区画整理を前提としない街づくり」を掲げ、大学教授らと議論を始めた。

 毎週土曜の夜、地区の代表者が膝をつき合わせた。10地区に分かれてワークショップを重ね、道路一つ一つの道幅までを考えた。

 「この地の歴史性を生かしたい」「車中心の住環境は反対や」。住民の声で、地下水路となった津知川を再現しようと、地下水をくみ上げ、公園にせせらぎを設けた。車が通過するだけの街にしないよう、区画整理でしばしば見られる碁盤の目だけでなく、曲がりくねった道路ができた。被災を免れた樹木は再び移植し、緑地もちりばめた。

 それでも、自分の家の前となると意見がまとまらなかった。「誰かが妥協しないといけない。徹底的に話した」とは、まち協の事務局長だった森圭一さん(72)=川西町。住民に頭を下げて回った。住民投票で6割の賛成を得て、街の将来図が完成したのは、震災から2年半後の夏だった。

     ◇   ◇

 街のあり方を丁寧に模索し続けるほど、事業は長引いた。津知町の仲本慶子さん(80)は、自宅の土地が公園の一部になった。仮設の住宅さえ建てられない。市から「転居してください」と言われるたび、荷物をまとめた。避難所や仮設住宅、市営住宅など5カ所を転居し、自宅を再建できたのは2003年10月。震災から8年がたっていた。

 別の女性は、自宅再建に11年1カ月を要した。5人家族で、引っ越しは9回。仮住まいの間に蓄えは尽きた。町に戻りたがった義母は再建の2年後に、夫は4年後に亡くなった。「区画整理なんてやらなければよかった」。今は西部地区に独りで暮らす。

     ◇   ◇

 街に戻れなかった人もいた。事業に参加する権利がない借家人は、家主の意向に従うしかなかった。

 中央地区の借家で商売をしていた畑野則雄さん(81)は、家主から土地の売却を伝えられた。住み慣れた土地を離れ、妻の千代乃さん(77)と南芦屋浜の市営住宅に移り住んだ。

 震災前まで、畑野さんが日用品の店を構えていたのは地区の「甲陽市場」。この市場も区画整理で消滅した。最近は足腰が弱り、以前暮らした街に足を運ぶことはなくなった。(斉藤絵美、風斗雅博)

2019/12/4
 

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