街の将来像をじっくり描くのか。いち早い復興を目指すのか-。
阪神・淡路大震災から2カ月。土地区画整理が決まった阪神芦屋駅北東の「中央地区」は、住民が事業の進め方で二分された。家屋の8割近くが全半壊。区域は約13ヘクタールに及び、地権者は600人を超えていた。
兵庫県芦屋市大桝町と公光町、茶屋之町の一部からなる一帯は、「芦屋の台所」とも呼ばれ、二つの商店街と一つの市場を抱えていた。震災に見舞われたのは、そんな商店のにぎわいに陰りが出たころだった。商店主や自治会でつくる「街づくり協議会(街協)」は一刻も早い復旧を求めた。
しかし、次第に商店主らとたもとを分かつ住民が現れる。1995年10月、大桝町での会合に有志28人が出席。行政が主導する区画整理に対し、住民意見の反映を求めた。「街協には任せられない」。その夜、事業の見直しを掲げる「住民の会」が発足した。
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区画整理を急ぐ「街協」と、慎重な姿勢の「住民の会」。芦屋市主幹だった井上正三さん(75)は「説明会は怒号が飛び交っていた」と振り返る。本通商店街の通りを幅20メートルに広げ、市場や宅地をつぶして大きな公園を置く計画。賛否の意見が交錯した。
商売人にとって休業は死活問題だった。同商店街で焼き肉店を営む康本邦三さん(75)は店が全壊し、震災から50日目にプレハブ店で営業を再開した。当時は商店会の会長で街協の副会長。「5年でやれる事業を、10年かけるのが丁寧なのか」と住民の会に反論した。
一方、住民の会発起人の坂上和夫さん(73)=大桝町=は「街並みがつぶされる」と危機感を強めていた。住民の一部は、事業認可の取り消しを求めて国を訴えたが、敗訴した。原告だった茶屋之町の大谷健造さん(65)は「行政は住民の声に耳を貸さない。納得がいかなかった」と今も悔しさをにじませる。
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結局、中央地区は住民の意見がまとまらず、施行した住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)の計画に沿って区画整理が進んだ。
従前の宅地を再配置(換地)する手続きは、当事者以外に情報は開示されなかった。「あの人は行政寄りだから、いい場所に移転できたのでは」。住民の疑心暗鬼も生んだ。
震災から7年が経過した2002年5月。中央地区は、3地区で最も早く事業を完了した。一方、住民が街の設計に参画した「西部地区」では事業が長引いていた。(風斗雅博)
2019/12/3