「皆さんは1年生から6年生まで年の差も大きく、理解力も異なると思われますが、きょうは皆さんを大人だと思って話をします」
東京都新宿区の小学校。体育館に集まった子どもたちが真っすぐなまなざしを向けて話に聴き入る。
視線の先に立つのは、瀬尾征男(ゆきお)(80)=東京都中野区。紺のスーツ姿でマイクを握り、抑制の効いた声で1995年の阪神・淡路大震災の体験を語り始めた。発生時に東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)の取締役神戸支店長を務め、現地対策本部の中心として自社や顧客の復旧・復興に奔走した。
ひしゃげたビルや物が散乱した自社オフィスの画像を前に、有事対応で肝心と感じたポイントを挙げる。「生きるために自分で考えて行動すること。命は自分で守る」「災害が起きたらどう逃げるか、隣の人と相談すること。普段から人と仲良く」-。小学生にも理解しやすいよう易しい言葉で説く。身を乗り出して耳をそばだてる児童もいた。
「半分聞いても、半分聞かなくてもいいです。全部正しいことを言うわけでもありません。みんなが考えて、必要だなとか、面白いなと思ったことだけを覚えてくれればと思います。おのおの自分の考えで聞いてください」
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瀬尾は97年に取締役を退任し、グループのリスクコンサルティング会社の社長に転じた。その後、ひょうご震災記念21世紀研究機構と、前身の阪神・淡路大震災記念協会が98~2009年度に実施したインタビューに協力した。震災の事実と教訓を残すため、政官財の関係者から証言を集める「オーラルヒストリー」(口述記録)だ。この中で瀬尾は30人ほどの体験を聞き、05年には自身の体験を語った。
ヒストリーは当初、30年間非公開とされたが、東日本大震災などで「次の大災害が起こる前に公開し、教訓を生かそう」と方針が転換され、本人や関係者の了承が得られた瀬尾の分を含む一部が公開された。
-たまたま私が神戸にいた。連休明けというと単身赴任だから東京に帰ったり、本社で会議があったりで不在が多い。正月に帰ったばかりだった上に、接待などがあったからいました。責任者が現地にいるということは、極めて重要だと思います。
95年1月17日は3連休明けの火曜だった。早朝に神戸市中央区山本通の築4年のマンションで大きく揺さぶられた。山裾で地盤が強固だったせいか、建物はびくともしなかった。支店長として神戸に赴任したのは前年の夏。営業エリアの兵庫県全域を一巡し、少し慣れてきた直後の大激震だった。港を擁して海運業が隆盛した神戸の支店は、東京海上の中でも伝統のある拠点で、瀬尾は当時約400人の従業員を率いていた。
-神戸の震災後は、大空襲で東京がめちゃくちゃになった戦後と似ている。初めて見るとは思えないというか、経験のあった光景にまた戻ったような錯覚を起こすぐらいでした。
東京出身の瀬尾は5歳で終戦を迎えた。ちょうど半世紀後。遠く離れた神戸の地で、同じように焼け野原を目にすることになった。
さらに20年後の2015年以降は、同じ業界のOBで阪神・淡路を安田火災海上保険(当時)の兵庫本部総務課長として経験した児島正(71)=横浜市=らの依頼を受け、「1・17」の語り部を始めた。がんと闘いながら、直下型地震の恐れも指摘される都内の事業者や大学生、子どもたちのもとに足を運ぶ。=敬称略=(佐伯竜一)
【せお・ゆきお】早稲田大商学部卒。1958年、東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)。火災保険や航空保険部門などを経て、94~97年取締役神戸支店長。97~2003年に東京海上リスクコンサルティング(現東京海上日動リスクコンサルティング)社長。東京都出身。
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企業人は25年たった今、何を思い、伝えるのか。瀬尾のオーラルヒストリーと語り部活動をたどる。(ヒストリーは抜粋。一部加筆しています)
2020/1/1