1945年の終戦、95年の阪神・淡路大震災を経て2015年から震災の語り部を始めた瀬尾征男(ゆきお)(80)=東京都中野区。当時は東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)の取締役神戸支店長を務めており、「1・17」の朝を神戸市中央区山本通の社宅で迎えた。
阪神・淡路大震災記念協会(現ひょうご震災記念21世紀研究機構)が、関係者の証言をもとに編んだ「オーラルヒストリー」(口述記録)で、瀬尾は05年の聞き取りに対し、当日の出来事を克明に伝えている。発生時間の午前5時46分はベッドにいた。
-縦揺れがすごく、これはどこかが地震でやられているなと。神戸が一番やられているとは思わなかったです。
電気、ガス、水道は止まり、電話もかからない。単身赴任の居室はテレビが転がるなどしており、懐中電灯を手に出勤の準備をした。帽子をかぶり、防寒ジャンパーを羽織った。1、2日は戻れない覚悟でリュックに食料を詰め、午前6時半ごろに社宅を出た。
旧居留地の支店までは徒歩で20分ほどだが、時間を掛けて周りを見ながら進んだ。目に付いた建物の多くは壊れ、鉄道の高架が神戸・元町付近で崩れていた。
公衆電話を見つけて東京の自宅にダイヤルをした。出たのは息子。「神戸は地震で大変なんだ。おれは生きているからママにそう言っておけ」。職場に着いたのは同7時半ごろだった。
-うちの会社のビルは立っていた。中はめちゃくちゃ。ロッカーなんかも倒れて、机は書類が散乱して、手の付けようがない。
支店もやはりライフラインは断絶していた。支店長室の電話は通じたので、かつて直属の上司だった社長に第1報を入れた。「神戸が大変だ」「(途上で見た)ビルが倒れて。生き埋めの人がいます」「周りのビルも壊れてこれは2、3年はだめかもしれない」
鬼気迫る報告だったのだろう。「分かった。とにかくお前に任せる。全権をやる」と言ってくれた。すぐに東京本社の総務、損害、安全技術の各部長に同じ報告をした。
午前9時を過ぎると何人かの社員が出勤してきた。余震が激しく、いったんは自宅待機を命じつつ、「一応あす来てくれ。自分の身だけを守ってくれ」「自分の家族だけを大切にしろ。あとはいい」と伝えた。
翌日も状況は変わらなかった。公共交通機関が途絶えて多くの社員は出社できず、可能な業務も限られていた。兵庫や中四国などを統括する専務に相談して神戸支店の機能を大阪支店に移すことを決め、社員らと車を乗り合わせて19日朝に大阪入りした。
瀬尾はその足で上京して被災地の状況を踏まえた応援を本社に要請し、神戸に戻るつもりだった。しかし「瀬尾は残れ。現場責任者が現場を離れるのは良くない」と言われて従った。東京には、専務と大阪支店長の常務らが向かった。
-いま考えると、これは失敗だね。僕が直接(本社に出向いて)「こうやってほしい」と言わないと。
被災地を肌身に知る自身と、それ以外の人とでは、有事に必要な施策で考えが異なる恐れがある。支店従業員の安否確認や顧客からの問い合わせなどに対応できたのは、大阪支店、本社の協力があったからこそだが、被害が深刻な場所ほど現地情報の詳細は全て伝わりにくい。であれば、瀬尾が上京すべきであったし、自身に代わる支店のリーダーも育てておくべきだった。
震災から25年を経て胸中に去来するのは「神戸に震災は起きないと思い込んでいたことが失敗だった」。=敬称略=(佐伯竜一)
※ヒストリーは抜粋。一部加筆しています
2020/1/5