25年前の阪神・淡路大震災でライフラインを失った東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)の神戸支店。取締役支店長だった瀬尾征男(ゆきお)(80)=東京都中野区=は社長から現場の全権を任された。1月20日に神戸支店の社員を大阪支店に集め、行動の基本原理を示した。その時の言葉は、阪神・淡路大震災の「オーラルヒストリー」に残されている。
-「業務より安全の確保を優先していい。自分が生きることが第一だ。あとは各自の自己責任。社命に一切とらわれなくていい。自分で判断しろ」
多くの建物が倒壊し、各地で火災も多発した。非常時の業務は平時の延長線上でなく、前例にとらわれない判断力が問われる。まずは、業務の基盤となる社員の安全を考えた。次にその家族、隣近所、保険商品を扱う代理店、契約者とその家族-というように優先順位を明示した。
有事を乗り切るための活力も重要だ。社員を萎縮させては元も子もない。「神戸の対策本部長である私が一切の責任を負う」と宣言した。
大都市を襲った未曽有の直下型地震である。かけがえのない財産を奪われた契約者にどう寄り添うか。瀬尾は、神戸支店の物的被害が軽微だったことを踏まえて「地元にお返しするチャンスだ」と呼び掛けた。保険金の支払いの可否は「常識で答えろ」と強調。平時であれば支店長権限の案件でも現場の判断に任せた。
-「必ずしもマニュアルに従う必要はない。人に聞かないで、自分の分かる範囲で自分の言葉で説明しろ。できる範囲で最大限やるべきことは(契約者に)約束して」
瀬尾の訓示に異を唱える者はいなかった。
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大阪支店に長くとどまるわけにいかない。訓示の翌21日。チャーターしておいた船で20人余りが大阪から神戸に移動し、支店ビルの安全を確かめた。23日に送電が始まり、27日に営業を再開した。支店には本社から救援物資が次々と送られてきた。車庫や隣のビルに積み上げておき、社員に限らず、誰が持っていってもいいことにした。代理店や周辺の事業所、通りすがりの人たちに喜ばれたという。物資だけではない。応援要員も全国の拠点から投入されてきた。
-上が責任を持つから、あとは好きにやれと。これが意外と功を奏した。自分で考えて、自分でやった。
当初こそ「何をすればいいか」と指示待ちの人もいたが、ホテルを押さえる、安全な道路を選ぶ、代理店に物資を運ぶ、会議後に内容を紙1枚にまとめてファクスで送る-。それぞれが得意分野を生かして、機動的に動いた。指揮命令系統はなくても、仕事は加速度的にはかどった。「人間って、結構やるな」と瀬尾は振り返る。
反省点もある。実は発生から2日を過ぎても、神戸支店で安否不明の社員が2人いた。1人は親戚宅に身を寄せており、もう1人は避難所から別の避難所に移っていたことが1月20日に分かった。東京海上は個人情報保護などの観点から、当時すでに社員名簿を廃止していたことも確認に手間取る一因となった。
「組織は名簿を用意しておくべき。OBも含めて把握しておけば、助けに行ったり、協力を得られたりする。僕は今も名簿廃止に反対している」。瀬尾は語気を強めた。=敬称略=(佐伯竜一)
※ヒストリーは抜粋。一部加筆しています
2020/1/7