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慰霊祭で手を合わせる斉木久美子さんら=神戸市灘区桜口町4(撮影・後藤亮平) 被災した六甲道駅南地区=1995年7月 神戸新聞NEXT
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慰霊祭で手を合わせる斉木久美子さんら=神戸市灘区桜口町4(撮影・後藤亮平)

被災した六甲道駅南地区=1995年7月

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 震災25年を控えた日曜の1月12日。六甲道南公園にある鎮魂の碑の前で、慰霊祭が営まれた。献花に続き、主催する公園管理会の顧問、斉木久美子さん(90)があいさつする。

 「震災を知らない子どもたちに、この公園は遊び場と思われるようになりました。いつか想定外の災害があっても、公園が有意義に使われることを望みます」

 約70人の参列者の多くは高齢者。再開発に関わった住民や市の関係者に、まちおこしや防災に関わる大学生が交じる。

 「何の集まりですか」。若い夫婦が、花を手向ける人たちのそばをけげんそうに通り過ぎる。芝生には、たこ揚げやボール遊びを楽しむ親子の笑い声が響く。

 9300平方メートルもの防災公園を造る計画を巡って、行政と住民が鋭く対立したことが、遠い昔のようだ。

 最高33階建ての再開発ビル「ウェルブ六甲道」の人気は高い。「快速停車駅に近く、買い物も便利。子どもを安心して遊ばせられる」。10年ほど前に転居してきた女性(40)は言う。神戸市須磨区の実家で被災したが、「ここの被害は知らない」。旧住民との交流もほとんどない。

   ◇   ◇

 JR六甲道駅から国道2号にかけて約6万平方メートルが広がる同地区は戦災を免れ、狭小な住宅や商店が立ち並ぶ密集地だった。

 昭和40年代、駅の高架化と並行して市の再開発事業が始まる。駅の南側に4棟の複合ビル「メイン六甲」が建ち、北側もビルやバスターミナルが整備された。駅周辺は、市の総合基本計画で「東の副都心」と位置づけられ、民間による再開発も期待されていた。

 震災時は約700世帯1400人が暮らし、約3割が高齢者。古い建物が残る街は65%が全半壊し、34人が亡くなった。

 「がれきの下から声がすると助けに走り、遺体を親族が来るまで預かった」。街を離れて20年たっても、安原良和さん(71)=同市東灘区=は鮮明に記憶する。

 震災の2週間後、建築制限区域に指定。地区の中央に防災公園を配し、道路を広げ、ビルを建設する案が示される。2カ月後には、都市計画決定。「被災者が大混乱しているさなか、市はいきなり網をかぶせた」

   ◇   ◇

 今月12日の慰霊祭後、見学に訪れた建築系の学生らに、再開発事務所の所長だった倉橋正己さん(70)が当時の混乱を語った。

 「市ががんばってやるという方針を示す都市計画決定だったが、住民と話もなくイメージを出したので、何でやとなった」

 住民の意見を吸い上げるため、四つの「まちづくり協議会」ができた。公園は羽子板形に縮小し、ビルは南向きの住戸を増やした。協議を踏まえた「2段階方式」で、震災の2年後に都市計画は変更。10年余りで完了した事業は“成功”とされ、学会の賞も受けた。

 「街はきれいになった。だけど-」。同席した斉木さんは学生に語り掛ける。「市の手の上に乗ってできたんだと思っています」

(田中真治、段 貴則、霍見真一郎)

2020/1/28
 

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