復興再開発のまちびらきまで10年余りを要した神戸市灘区の六甲道駅南地区。市の事業完了後の報告によると、地区内で居住・営業していた人のうち、約4割が地区外に出た。だが、震災翌年のアンケートでは、回答者の8割弱が地区内に残ることを希望していた。
写真家の森田純三さん(71)は、生まれ育った備後町に自宅兼スタジオを構えていた。六甲新道商店街に面した木造の長屋は、激震に崩れ落ちた。家族5人は助かったが、国道2号を隔てた隣町の兄を失った。
カメラや機材を救出し、自宅跡にプレハブを建て、再開発の協議を注視した。スタジオは天井高が要る。再開発ビルに適当な場所が見つかったが、断念した。
ビルに入るまで、天井が低く狭い仮設店舗では営業できない。照明や背景紙など大きく重い機材もある。「10年かかる上に、2度も家を替わるのは耐えきれず、見切りをつけた」
店とは別に、住居をビル上階に確保するのも金銭的負担が大きかった。震災の4年後、1駅東のJR住吉駅前に移転した。
震災前は商店街の会長をしていた。当時の三十数店舗を数え上げても、残っているのはわずかしかない。「立ち退かないかんことが一番つらかったと思うね」
森田さんのなじみの洋食店「赤天」も倒壊。店主の妻が圧死した。長男(72)は父から「店をやっていたかった」と聞いたが、77歳と高齢で再建はあきらめた。ビルに住むにも、残った土地の価格を上回り、新たな負担が必要だった。
長男は父をみとった数年後、地区の近くに戻ってきた。「やっぱり愛着があるから。過去をひきずっても仕方ないけど、地震がなかったら全然ちごたやろな」
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備後町に住んでいた上野貞冶(さだや)さん(90)は、まちびらき行事の実行委員会長を務めた。「当時の印象? ハイカラな街になったな、と思ったことくらいやね」
震災まで、昭和初期の木造家屋が多く残っていた。上野さん宅も全壊し、母を亡くした。借地だった自宅跡に地主の了解を得て仮設住宅を建てた。再開発ビルに転居できたのは、震災の5年7カ月後。「待ち続けて入居前に亡くなった人は私の周りにも数人いた」
まちびらきから15年。「住みたい街」として人気は高い。妻の明子さん(82)は「防災を考えれば、再開発で安心して暮らせるのは良かったんだけど…」。近所で買い物をしても、昔なじみの店主や住民と会うことが少なくなった。「よその街に来たみたい」。長年暮らした愛着のある街が、街並みの変化以外にも、どこか違って見える。
2020/1/30