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被災前の千歳地区について語る埴岡秀行さん=神戸市須磨区千歳町2(撮影・鈴木雅之) 焼け跡で懸命に救助活動を続ける住民たち=1995年1月18日 神戸新聞NEXT
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被災前の千歳地区について語る埴岡秀行さん=神戸市須磨区千歳町2(撮影・鈴木雅之)

焼け跡で懸命に救助活動を続ける住民たち=1995年1月18日

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 「歩行者専用道路が広いでしょう」

 隣を歩く埴岡(はにおか)秀行さん(81)が立ち止まって両手を広げた。4メートルはあるだろうか。車道とほぼ同じ幅だ。

 「災害時に歩いて逃げられる。まちづくりに震災の教訓を生かしました」

 埴岡さんは震災当時から自治会役員を務め、今は6町からなる千歳地区連合自治会の会長。往事を知る一人として案内してくれた。

 待ち合わせは千歳公園。旧千歳小学校の跡地に、2005年に完成した。防災倉庫や仮設トイレを備え、隣の地区センターは避難所にもなる。

 震災直後は千歳小に避難した。「見渡す限り、焼け野原だった」。何日たっても焦げ臭かったという。

 張り巡らされた広い街路を一緒に歩く。数メートルごとに足を止め、記憶をたぐる。「ここにケミカルシューズの工場があって」「古い住宅が立っていた」…。

 戦前から残る長屋が密集し、約1200世帯が暮らした。「お酢貸して」「煮物余ったからどうぞ」。隣近所で調味料や鍋を融通し合い、共同井戸で冷やしたビールを分け合ったという。

 今の整然とした住宅街に下町の面影はない。

 「できることは精いっぱいやった。でも、戻れなかった人もいた」。一人一人の顔を思い浮かべる。

     ◇    ◇

 公園の規模や幹線道路の位置、公営住宅の入居条件…。事業の中身を巡り、行政と住民は真っ向から対立した。

 最大の焦点は借家人の住まいだった。住民の約6割が家を持たず、世帯主の4人に1人は高齢者。事業対象は土地や建物の所有者のみで、受け皿として公営住宅は譲れなかった。

 04年度から5年間、事業を担当した元市職員の亀山寿仁さん(62)は「他の地区より団結していた。『私たちのまち』という強い決意を感じた」と振り返る。

 激しい交渉の末、借家人が優先入居できる住宅が整備され、公園の位置は小学校跡地に決まる。それでも、借家人の大半は戻らなかった。震災後に移り住んだ住民は今、約8割を占める。

     ◇    ◇

 行政との交渉役を担ったまちづくり協議会の中にも戻れなかった人はいる。

 協議会会長を務めた鍋山嘉次さん。「こちらの案を検討していただきたい」と、市に何度も計画を押し戻した。気迫負けする市職員もいたという。

 一方で、住民との板挟みになり、苦悩の表情も見せる。まち協は連日、説明会や相談会を開催し、鍋山さんは避難先の垂水区から通った。「あんたはここに住んでいないやろ」。心ない言葉が浴びせられた。

 説明会では、聞き慣れない「換地」や「減歩」などの言葉に不満が噴出。「裁判してでも反対する」。怒号が飛び交う日もあった。

 「地元では市の手先のように言われ、市からは煙たがられた。よく耐えたと思う」。埴岡さんは、鍋山さんの労苦に思いをはせる。

 閑静な住宅街に生まれ変わった千歳地区。連合自治会はマンションの住民にも地域活動への参加を求め、餅つき大会などの催しも復活させた。

 全てが元のようには戻れない。震災さえなかったらと思う日もある。それでも「もっといい街に」と埴岡さんらは努力を続ける。(末永陽子)

2020/2/24
 

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