千歳地区と近接しながらも、異なる「災後」を歩んだのが神戸市長田区の野田北部地区だ。阪神・淡路大震災の猛火を免れ、復興土地区画整理事業の対象から外れた「白地地区」もまた、別の苦労を抱えていた。
全203ページ。ずしりと重い本がある。「野田北部の記憶」。住民同士の対立など白地地区特有の苦悩を乗り越え、街をゼロから再建したという自負がにじむ。
復興まちづくりで行政との交渉役となるのはまちづくり協議会だ。震災後に発足した地区が多い中、野田北部では1993年にすでに結成されていた。
街の「顔」である鷹取商店街での客足減少や空き家増加など、地域の課題を自分たちで解決しようという機運が高まっていた。「客はわしらが増やしたる」。住民らが話し合いを始めた直後、震災が街を襲った。
住宅の約9割が全半壊。ただ、火災の被害は大国公園を境に二分された。西側が被害を免れたのに対し、東側の2街区は大半が全焼。震災後、この2街区を除いた西側で、住民によるまちづくりが始まった。
復興計画に関わった元市職員の石井修さん(71)は回顧する。「『住民主体』という言葉は響きはいいけれど、要するにすべて白紙ということ」
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95年2月、まち協役員らが出席した説明会で、市の担当者は「街並み誘導型地区計画」を提案した。幅3メートルしかない道路を広げるため家を後退させる代わりに、規制緩和で3階建てにできるなどの利点があった。
区画整理で道路が広がる東側と一体感を持たせる必要がある-。まち協は96年7月、導入を求める要望書を市に提出した。
だが、住民との話し合いは思うように進まない。壁になったのは「全員合意」の条件。参加を呼び掛けても会場は空席が目立った。
役員だった林博司さん(71)は、東側の説明会が住民であふれたと聞くたび、複雑な思いを抱いた。「西は切迫感が乏しかった」
一戸一戸を訪ね歩き、案内チラシを手渡す。「見てないとは言わせない」。空席は徐々に埋まっていった。
土地や家を持つ住民は約7割。「市に土地を取られる」と抵抗する人もいた。若手役員が出向き、説得を重ねる。まち協会長だった浅山三郎さん(83)は「若手の情熱にかけた」と振り返る。
10年かけて28本の街路が完成した。石畳の「こぶし通り」やカラフルなレンガの「ハナミズキ通り」…。デザインにも名前にも住民の個性が光る。
「自分たちの手でつくった街には愛着がある」。浅山さんが胸を張った。(伊田雄馬)
2020/2/27