1月下旬、神戸市須磨区の千歳地区。高知県の中学生ら8人が、阪神・淡路大震災の教訓を学びに訪れた。
「震災の時に助けてくれたのは近所の人たち。もしものために、日ごろから交流して一緒に防災活動をする必要がある」。自主防災委員長を務める崔敏夫さん(79)が案内役を務めた。
震度7の激震と東からの延焼で、同地区の建物は約9割が焼失。47人の命が奪われた。その一人が崔さんの次男秀光さんだった。
「息子の分まで」。縁のなかった自治会活動に取り組み、“共助”の重要性を訴え続ける。
近くに住む大賀一男さん(83)も行動を共にする。震災当時は地元消防団団員。必死に消火に回ったが、水槽はすぐに底を突いた。火を消す水が一滴もなく、燃えさかるまちを歯ぎしりして見てるだけだった。「二度とあんな思いはしたくない」
2人は繰り返した。「まずは震災を知ってほしい」
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25年。悲しみ、悔しさ、自責の念…。崔さんにとっては抑えきれない感情の積み重ねだった。
悔やんでも悔やみきれない一言がある。
秀光さんは当時20歳。成人式のため帰省していた。16日に東京へ戻る予定だったが、風邪気味の息子を崔さんが引き留めた。「1日ゆっくりして、明日帰ったら」
秀光さんは家の下敷きになり、帰らぬ人に。対面した顔の左半分は紫色に腫れていたが、右半分はきれいで寝ているようだった。体に合う棺おけを用意できず、「ごめんな」と泣いて謝りながら足を曲げた。
崔さんは在日コリアン。祖国からの慰問金や物資に感謝しつつ、「災害時は地域のつながりが大切」と実感するようになった。
年に一度は避難訓練を実施する。震度体験車や防水体験を用意し、地域活動に消極的な子育て世代の呼び込みを欠かさない。
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震災後に転入してきた住民は約8割に達した。若い世代や子どもたちとあいさつする機会も増えてきた。
だが、風化は確実に進む。
崔さんらが2013年に行った住民アンケートでは、回答した242人のうち、南海トラフ巨大地震などに備えて近所の人と話し合っていたのはわずか6人。家族の役割分担を決めていたのは9人にとどまった。
9割を超える223人が阪神・淡路を経験したにもかかわらず、だ。
「アボジ(父さん)、頑張るからな」。天国の秀光さんに今日も呼びかける。被災者に「節目」はない。(末永陽子)
=おわり=
2020/2/28