あの時以来、他人が捨ててしまうような物も手放せなくなった。書類にお菓子の缶、段ボール、プラスチックケース…。自宅の部屋や廊下にはさまざまな物が山積みになっている。
「火事で全部を失ったからかな。なかなか捨てられなくて」。神戸市須磨区のアルバイト阿部信行さん(68)は苦笑交じりに話した。
阪神・淡路大震災後の火災で、建物の約9割が焼失した同区の千歳地区。新築から3年半だった阿部さんの自宅も全焼した。妻のさよみさん(70)と1歳だった息子の家族3人は無事だったが、息子は大きい音におびえるようになった。
大阪府吹田市の弟宅へ身を寄せた後、神戸市垂水区の社宅や須磨区のマンションなどを転々とした。「お隣はどうしているだろうか」「あの人は元気かな」…。夫婦の会話は自然と千歳に向かった。
やっぱり千歳で子育てしよう-。2004年、同じ場所に一戸建てを再建した。
転居を繰り返している間に千歳では区画整理事業が始まっていた。変わったのは街並みだけではない。震災後に転入してきた新住民が増加。阿部さんが住む千歳町1丁目でも、57軒のうち震災前から住むのは十数軒になった。「隣同士で『電球取り換えて』と頼み合った時代が懐かしい」
神戸市が買収し、フェンスで囲んだままの更地は今もあちこちに残る。この街はまだ復興していない。阿部さんの目にはそう映る。
◇ ◇
「祖母はずっと千歳に帰りたかったんだと思う」。大阪府高槻市に住む女性(53)は振り返る。
離れて暮らしていたが、祖母の家にはよく遊びに行っていた。5、6軒並んだ長屋の一つを借りての1人住まい。周囲も単身の高齢者や高齢夫婦だった。「病気の時は看病し合ったり。みんなで支え合っていた」
震災で長屋は全焼し、地主は再建を断念。祖母は14年前に息を引き取るまで、神戸や名古屋の親戚宅などを転々とする。
明るくおしゃべり好きな性格は変わらないように見えた。千歳時代の隣人や友人たちと絵手紙をやりとりし、時には一緒に旅行を楽しんでいたという。
だが大きな変化もあった。「いつ地震が来るか分からない」と高層ビルの近くを避けて歩くように。湯船に漬からず、テレビも見ない。「写真は焼けてしまう」と言って撮影を嫌がったため、遺影はないまま。神戸や震災についても多くは語らなかった。
「忘れたかったのか、もう違う街になったと思っていたのか…」。祖母の本心を確かめるすべはない。
(末永陽子、村上晃宏)
2020/2/26