北播

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空襲の傷痕が残るたんすを今も大切に持っている田中美恵子さん=加東市
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空襲の傷痕が残るたんすを今も大切に持っている田中美恵子さん=加東市
破片が貫通した痕が残るたんす=加東市
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破片が貫通した痕が残るたんす=加東市
破片が貫通した痕が残るたんす=加東市
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破片が貫通した痕が残るたんす=加東市
空襲の傷痕が残るたんすを今も大切に持っている田中美恵子さん=加東市
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空襲の傷痕が残るたんすを今も大切に持っている田中美恵子さん=加東市

 1945年7月24日に起きた空襲の全容を明らかにするため兵庫県加東市の下滝野地区を歩く。根気強く民家のドアをノックし続けた。高齢者がいれば、「あの空襲を知りませんか」と問う。その人が体験していなくても、「あの人なら知っているかも…」という情報があれば、紹介してもらう。

 地道な聞き込みを続けていくにつれ、複数の体験者にたどり着いた。いずれも80~90代だが、空襲当時は全員小学生だった。

 そのうちの一人、田中美恵子さん(84)=当時(8)。記者に古びたたんすを見せてくれた。一見なんの変哲もないが、側面に傷が残る。引き出しの底にも、不格好な穴が開いている。

 「このたんすは、あの日の空襲で落とされた破片が貫通しているんです」

 美恵子さんはそう教えてくれた。

    ◆

 空襲当日は夏休み期間だった。美恵子さんは自宅にいた。家族と昼のだんらんを過ごしていたことを覚えている。

 空襲直前、友達の女の子が家を訪ねてきた。美恵子さんが真っ先に奥の間から土間に向かう。話が弾んだ。母親ら家族も笑顔で加わった。

 その時だった。「バリバリバリバリ」。今まで聞いたこともないごう音が響いた。勢いよく砂ぼこりが舞った。米軍機の攻撃だった。

 土間に出ていたため、家族も友達も無事だった。恐る恐る奥の間に戻ると、爆弾の破片が室内の至る所に突き刺さっていた。たんすの傷は、この時に付いたとみられる。

 「もし、友達を出迎えていなかったら、みんな死んでいたのではないかと思います」。美恵子さんはそう振り返る。

 しばらくすると、大人たちが騒ぎ出した。近所に住む田中とみゑさん=当時(52)=が死んだ、というのだ。母親たちが様子を見に出掛ける。「子どもは来ちゃいけん」と言われた。

 それでも、こっそりと現場に向かう。人混みの隙間から、ござに横たわるとみゑさんの遺体を見た。周囲は、血の海だった。

    ◆

 あれから、76年。それでも記憶は鮮明だった。取材の途中で、美恵子さんがふとつぶやいた。

 「もう、あの空襲を知っているのは周りに数人ぐらい。このまま、忘れられていくんやろか」(杉山雅崇)

知られざる空襲・第2部(1)体験者の証言 昭和20年7月24日【加東・下滝野】

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