■生還した母の無念/反戦伝える使命胸に
太平洋戦争終結の前年、沖縄から本土に向かった学童疎開船が米潜水艦の攻撃で沈んだ。6~15歳の国民学校の学童ら1484人が犠牲になった「対馬丸事件」だ。引率教師の一人として乗船し、奇跡的に救助された新崎(あらさき)美津子さん(故人)は終生、教え子を死なせた自責の念にさいなまれ、沖縄に帰らず栃木県に移住した。そこは本土疎開を進めた元沖縄県警察部長、荒井退造氏の故郷だった。悲劇から80年。新崎さんの長女、上野和子さん(77)は母の無念の思いをつづった「蕾(つぼみ)のままに散りゆけり」を出版した。2人の運命が交錯した軌跡を受け止めながら。(津谷治英)
-13年前に他界された美津子さんは家族に対馬丸の悲劇をどう伝えてきましたか。
「家族にはほとんど話しませんでした。でも遭難を経験したことは、うすうす感じていました。亡くなる5年前、地元の平和学習会で母が講演する機会があって私も聴講し、初めて凄惨(せいさん)な事実を知りました。対馬丸事件に関心を持つきっかけになりました。それでも詳しく知ったのは母の死後です。遺品を整理していて、苦しい胸の内を詠んだ短歌がたくさん見つかったんです。それから親戚や関係者に話を聞くようになり、母が秘めていた苦悩に近づいていきました」
「遺品には当時を回想した手記もありました。魚雷攻撃を受け、あっという間に沈んだことがつづられていました。戦史を調べると10分くらいだったそうです。たくさんの子どもが船に残されており、母が教え子を懸命に助けようとする光景が生々しく記されていました。子どもたちが『せんせーっ』と助けを求めて叫びながら、目の前で次々と海にのまれていく。読んでいて胸を締め付けられます」

-なすすべがなかった無力感が伝わります。
「沖縄近海は既に米軍の勢力が及んでいて、県民は海を越えての避難は危険だと肌で感じていたため、疎開はなかなか進みませんでした。そこで教師に親の説得役を負わせるんです。母は教え子の家庭を訪問して大切な子どもを預かった。対馬丸に乗せなければ助かった命です。一方で母は4日間漂流した後に救助されました。短歌からは『自分だけが生き残ってしまった』との自責の念が死ぬまで、脳裏から離れなかったことが分かりました」
「母は15歳だった自分の妹も説得して対馬丸に乗せました。沈没寸前の混乱で足をけがしたそうですが、教え子たちの避難に必死だった母は、そばにあった板切れを浮き代わりに渡し、『海に飛び込んで、これにつかまって』と指示して手を離します。それが姉妹の今生の別れになりました。知れば知るほどつらいことばかりです」
-なぜ美津子さんは、家族にも口を閉ざしたのでしょう。
「当時の記憶はささいなことでも、思い出したくなかったのでしょう。加えて父との葛藤があります。戦争が始まった直後に結婚し、父は軍医としてシンガポールに赴任しました。無事に復員して、家族が疎開していた熊本で母と再会し、私を含め4人の子どもに恵まれました。ともに沖縄出身の夫婦で、父は故郷に病院をつくる夢を持っていました。親戚や地域の人の支援で医師になったので恩返しがしたかったんです」
「しかし母は死んだ教え子の親に会わす顔がなく、沖縄に帰れなかった。父は最初、その苦しみを理解し、ちょうど医師を求めていた栃木の村に引っ越して開業します。でも帰郷の夢はあきらめられず、夫婦間がぎくしゃくします。離婚の危機もありました。だから家庭内で戦争や対馬丸の話題が出かけても、深くは聞きにくい雰囲気がありました。結局、両親は栃木で亡くなりましたが」
-栃木は警察部長だった荒井氏の出身地です。対馬丸疎開を進め、美津子さんの苦しみの元凶をつくった人ともいえます。
「母の死後、荒井さんを知りました。地元で追悼を続ける方たちが対馬丸遭難者の遺族と知って訪ねてこられ、教えられました。母のつらさを考えると、とても複雑な気持ちでした。荒井さんのことを書いた本もいただいたんですが、なかなか手にとれませんでした」
-それでも荒井氏の功績を調べ、著書でも触れています。何がその力につながったんですか。
「私たち家族が縁もゆかりもない荒井さんの故郷に移住し、人生を送った。これは何かの暗示だと思ったんです。いただいた本を少しずつ読んでいくと、疎開が実施された背景を知ることができました。戦場で足手まといになる子どもを遠ざけたいという軍の勝手な都合と論理ですが、結果として幼い生命を救う可能性があったと気付きました。実際、180隻以上の疎開船が沖縄を出港し、助かった人も大勢います。荒井さんは命を救う仕事を忠実に実行したと言えます」
「母の悲しみ、荒井さんの行動の両方を知った私は何か使命があるのではないかと思うようになりました。それでも2人の運命をなかなか交錯させることはできず、何度悩んだことか。結果、たどりついたのは命の尊さでした。私は対馬丸事件で犠牲になった叔母(母の妹)のことを親戚から聞いていました。数学が得意だったそうで、ひめゆり平和祈念資料館に遺品のノートが保管されています。正確に図形や数式が書かれている。生きていたら優秀な方になっただろうし、本人はもっと生きたかったはずです。その将来を奪ったのは戦争だと思いました」
-遺族の視点ですね。
「わが子を失った親の気持ちは痛いほど分かります。荒井さんを恨む人もいるでしょう。でも対馬丸を攻撃したのは米軍で、母も荒井さんも同じく犠牲者なのです」
-今もウクライナ、パレスチナで子どもの命が奪われています。
「戦争は罪のない幼い命を容赦なく奪う。二度と起こしてはいけない。母と荒井さんはそれを、私に伝えたかったんだと思う。これからも平和の尊さを訴えていきたい。2人から託された仕事です」
■対馬丸の悲劇を詠んだ新崎美津子さんの遺作短歌(上野和子さんの著書から抜粋)
〈親を呼び師を呼び続くるいとし子の花かんばせの命の惜しき〉
〈聊(いささ)かの疑いもなく乗船しあこがれの本土も見ずに散りたり〉
〈妹よ堅く握れる手が離れ学業半ばの汝(なんじ)も沈みき〉
【対馬丸事件】1944年8月21日、沖縄・那覇を出港し長崎に向かった学童疎開船「対馬丸」が翌日夜、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。国民学校の学童や教員、1484人が亡くなった。うち学童は784人を数えた。
【うえの・かずこ】1947年熊本県生まれ。2015年より、母の遺志を受け継いで対馬丸事件の伝承を続ける。20年から対馬丸記念会認定の語り部となる。