■生き残った人にも深い心の傷/語り継ぎたい「再生の物語」

 震災からの復興を経て近代的な建物が立ち並び、買い物客や観光客が行き交う神戸。1945(昭和20)年、この街はすべてを焼き尽くさんばかりの空襲に見舞われた。戦後の復興から高度経済成長期にかけ、埋もれてきた空襲の犠牲者、被害者の記憶を掘り起こしてきたのは、市民団体「神戸空襲を記録する会」だ。戦後80年を経て、活動は経験者の子や孫の世代に移っており、世話人を務める馬場敦子さん(51)もその一人。3世代目として継承に臨む思いをうかがった。(長嶺麻子)

 -神戸空襲を体験した祖母、三木谷君子さんとの思い出を教えてください。

 「家が近くて、幼稚園の頃からよくおばあちゃんの家で過ごしました。買い物やお風呂屋さんに一緒に行って。つないだ手はやけどの痕でビニールのように突っ張っていて、曲がって固まっていました。幼い私がお風呂で全身のケロイドについて『これ何?』と聞くと、ごまかさずにきちんと話してくれました。『戦争があって、こうなって、大やけどしたんや』って。大変やったんやなと思いました。私は寝るとき、祖母のケロイドを触っていると落ち着いたんですけど」

 「祖母は私が中学校に入る頃に亡くなりました。中学生ぐらいになると、戦争について知るようになりますよね。祖母の身に起きたことも。何でそんな目に遭わなあかんねんって。ちょうど湾岸戦争の時期でテレビに空爆の様子が映っていて、この下で起こっていることを想像すると、不安や怒り、そして何でやめられないんや、という悔しさを強く感じたのを覚えています」