■諦めていない姿勢見せたい/とにかく元気で生きとって

 年が明けた。また、1年が過ぎてしまった。新しい年を迎える度に月日の重みを感じ、悲しみにくれ、悔しさに震えてきた。北朝鮮による拉致被害者、有本恵子さん=神戸市出身、失踪当時(23)=の家族である。娘との再会を願いながら、父の明弘さんは昨年2月、老衰で息を引き取った。救出活動を引き継ごうと、日本に残る5人のきょうだいのうち、長女の北谷昌子さん(69)、四女の有本郁子さん(64)が昨年5月、拉致被害者家族連絡会(家族会)に入った。2人は語る。「私たちは恵子の帰国を諦めてない。その姿勢を見せていくしかない」。(末永陽子)

両親の思いを引き継いで拉致被害者家族会に入った北谷昌子さん(左)と有本郁子さん=神戸市長田区(撮影・若林幹夫)

 -恵子さんはどんな人でしたか。

 昌子さん「きょうだいが多いので、幼い頃はみんなでよく遊びました。取っ組み合いのけんかとかはなかった。恵子は真面目で、好奇心旺盛。手先が器用で私のウエディングドレスを縫ってくれました」

 郁子さん「私は年が近いので、中高の時は一緒に洋楽に夢中になりました。イギリスのバンドのベイ・シティ・ローラーズが好きで、一緒にコンサートに行きました。姉は部屋にポスターも貼っていて。あの頃から多分、海外に憧れを持っていたんだと思います」

 -恵子さんは1983年、英国ロンドンに留学中、旅先のデンマークから家族に充てた手紙を最後に消息不明となりました。

 昌子さん「留学については両親だけでなく、私も反対しました。母が海外は危険だって心配する気持ちがよく分かったので。でも、本人はもう行くと決めていた。恵子も多分、両親に反対されるのを予想していたと思います。だから、アルバイトのお金をすべて貯金して、行き先を含め全部を決めてから家族に留学することを伝えた。普段は親に逆らうような子じゃなかったのに。本当に譲れなかったんやと思う。恵子が親に逆らったのは、人生であの時だけだと思います」

両親の思いを引き継いで拉致被害者家族会に入った北谷昌子さん=神戸市長田区蓮宮通4

 郁子さん「私は姉が海外に強く憧れていたのを知っていたので、驚きませんでした。行ってきたらええやんって。留学後も、伯母といっしょにロンドンを訪れました。姉は憧れの地で、解放感いっぱいのように見えました。生き生きとしていて、積極的に友人を増やそうとしていた。実際にいろんな人と友達になっていて。最後に『また日本でね』って、言い合ったのを覚えています」

 -5年後の1988年、札幌市出身の拉致被害者石岡亨さんが日本の自宅に宛てた手紙で、恵子さんが北朝鮮にいることが分かります。

 昌子さん「手紙のことが分かった時は『生きてた』って、うれしい方が勝ちましたよ。母が『恵子がどこにいるか分かった』って電話をかけてきた声は明るく、本当にうれしそうでした。あの時はまさか国家が主導して日本人を拉致しているなんて、思ってもみなかったんです」

 郁子さん「そう、そう。生きてたんだ、良かったって。生存確認ができた瞬間でした。5年も連絡がなかったから。みんなで『もうすぐ帰ってくる、やっと会えるね』って」

両親の思いを引き継いで拉致被害者家族会に入った有本郁子さん=神戸市長田区蓮宮通4

 -ご両親は横田めぐみさんの両親らと家族会を立ち上げ、救済活動を続けてきました。明弘さんの最後の言葉は「きょうだい、仲良うせえよ」だったそうですね。どんなお父さんでしたか。

 昌子さん「仕事一筋の人でした。釣りや囲碁が趣味で、特に囲碁は強かった。老人会で指導するほどの腕前でした。でも、自分にお金を使うことはほとんどなくて。家ではあんまりしゃべらなかった。子育ては母に任せて、自分はとにかく仕事をする。そういう世代だったのかもしれません。80歳まで鉄工所で働いていました」

 郁子さん「父はおととしの秋ごろから体調が悪化し、だんだん食事もとれなくなりました。私は同居していましたが、亡くなる前の最後の1週間が、これまでで一番話をしたのかもしれない。子どもたちのこと、それぞれの性格とか思い出とか。話せて良かった。姉(恵子さん)の話は出なかったけど、最後まで拉致問題については考えていたはずです。いつも、どうしたら解決できるか、自分なりに考えていました。辞書をそばに置いて分からない言葉を引きながら、議員さんたちへの手紙を懸命に書き続けていた。その姿が強く残っています」

トランプ米大統領から生前の有本明弘さんに届いた手紙=神戸市長田区蓮宮通4

 -明弘さんは生前、救済活動について「親世代で終わり」とよく話していました。お二人が家族会の活動に加わったのはなぜですか。

 昌子さん「私たちも両親がいる間は2人の気持ちを尊重して、活動は任せていました。でも、気持ちは家族みんな一緒だった。父の代で終わらせてはいけない、って。今回は私たち2人が入会しましたが、全員が同じ気持ちです。国が相手なので、私たちにできることは限られているかもしれません。早く返してください、妹に会わせてください。その一心です。ただ、本当にうちら(きょうだい)の代で終わりでしょう。自分たちの子どもに引き継ぐようなことはしません」

 郁子さん「母は生前、『安倍さん(安倍晋三元首相)の時に帰国できないなら、もう難しいかもしれない』と話したこともありました。半分諦めの気持ちもあったのかもしれません。それでも、何かせずにはいられなかったんだと思います。私たちも集会に参加したり訴えたりすることしかできないけれど、できることを続けていくつもりです」

 -昨秋には、家族会としてトランプ米大統領と面会しました。印象は?

 昌子さん「父がトランプさんから2019年に贈られた直筆のメッセージを持参しました。会えたのは本当に一瞬でしたけど、意欲は感じられましたね。日本の後ろ盾になってくれたらいいんやけどな。高市さん(高市早苗首相)との関係は良好そうなので、期待はしています」

 郁子さん「これまでは、国が国民を助ける気があるように感じられなかった。水面下でどのへんまで動いているのか分かりませんけど、これを機に少し動かへんかな、という期待はあります」

有本恵子さんの実家には、2月に亡くなった父明弘さんが帰国を願って活動していたころの写真が並ぶ=神戸市長田区蓮宮通4

 -2002年に拉致被害者5人が日本に帰国して以来、解決への糸口が見えません。

 昌子さん「両親は『恵子だけ帰ってきても意味がない』と、被害者全員の帰国を望んでいました。時間だけが過ぎて、日本を取り巻く環境が厳しくなって、本当にもうどうしたらいいんやろう。いっときに比べて、国内での拉致問題への関心が薄れているとは感じます。若い世代が本当に知らない。家族としては、諦めてないっていう姿勢を見せることしかできない。政府も中高生向けの啓発イベントなど取り組みをしていただいています。恵子が元気でいれば、今年66歳。とにかく元気で暮らしていて、元気で生きとって。そう願っています」

 郁子さん「あの時(2002年当時)は両親もまだ希望を抱いていたと思う。活動すれば何とかなるんやないか、と。それがだんだん失望に変わっていった。きょうだいだから、会いたい。姉が元気でいると信じていますから、活動をやめるわけにはいかないんです」

【ありもと・けいこさん】神戸市外国語大学卒業後に英国留学。1983年、よど号ハイジャック事件メンバーらにより拉致された。5年後に北朝鮮にいることが判明、2002年、政府の拉致被害者に認定された。

有本恵子さんの実家には、支援者から送られた千羽鶴がつるされていた=神戸市長田区蓮宮通4