■和歌山出身の女学生の体験、次代へ/戦争を考える材料に

 太平洋戦争末期、戦闘機などを生産する川崎航空機明石工場(現川崎重工業明石工場)があった明石市は、度重なる空襲を受けた。その中で、死者・行方不明者が327人(明石市史などによる)に上った1945(昭和20)年1月19日の初空襲について研究を重ねているのが、「明石空襲を記録する会」副理事長の山本信季(のぶき)さん(78)だ。空襲体験を聞いて育った山本さんは、工場に動員されていた和歌山出身の元女学生たちに聞き取りを重ね、冊子などにまとめている。地道な調査にかける思いを聞いた。(杉山雅崇)

-ご両親が明石で激しい空襲を経験したそうですね。

 「幼い頃から空襲の体験を聞いて育ちました。母は和歌山出身で、『工場が密集している和歌山より空襲がなさそうだ』と明石に疎開してきました。45年当時、明石工場に動員されていた女学生らの宿舎『明徳寮』の寮母をしていました。1月19日の空襲では、爆撃される工場の様子を間近で見ています」

 「その後、戻った和歌山でも空襲を経験しました。同じ年の7月9、10日にあった和歌山大空襲です。焼夷弾(しょういだん)の雨が降る中、死体を踏んだり、飛び越えたりしながら逃げたことを語っていました。『燃える和歌山城を見て涙を流した』という言葉が、とても印象に残っていますね」

-お父さんは明石工場に勤めていたのですか。

 「陸軍の歩兵として満州にいたらしいのですが、41(昭和16)年ごろに航空機生産の技師として呼び戻され、それからずっと工場で働いていたんです。そうして1月19日の空襲に遭いました」