大学を休学し、宮城県石巻市雄勝町で支援活動をすることになった。
仮設住宅の一部に子どもたちが集まる自習室があり、そこで放課後の宿題のサポートをしたり、2002年に閉校した旧桑浜小学校を「子どもたちの学びや」にすべく改修作業をしたり。地元の方々と「つながり」をつくることにも取り組んだ。
「よそ者」が突然、町に入って活動をするということは、当然大きなハードルとなった。そこで私は、地元の方々の思いに寄り添える「話し相手」になるということを心に決めて、多い日は1日に4、5軒の民家や仮設住宅に訪問した。
活動する公益財団法人の車が「品川ナンバー」だったこともあり、すぐに「ボランティアなんだろうな」と気づかれることも多かった。集落に入っていくと、「見たことのない人いる」と、とても目立った。
そんな中、興味を持ってくださる人も少なくなかった。「何かできることはありますか?」「悩みごとはありますか?」と声をかけると、家に上がらせていただく場合もあった。
当時は、NHK連続テレビ小説で「あまちゃん」を放映していたタイミングでもあり、ある家庭には、「あまちゃん」の時間に訪れるルーティンができるなど、定期的に行かせていただくこともあった。
もちろん拒否されることも多く、あいさつのみになることもあったが、受け入れてくださる方の多くは、「聞いてほしい」というスタンスだった。
そして、私が自己紹介で阪神・淡路大震災での被災体験をお伝えすると、どこか心を開いてくださるのを感じることがあった。
同じ町で震災を経験していても、抱える思いや悩みは人それぞれだった。
「うちの家は幸い津波が到達しなかったから残ったけど、その先の○○さんの家は流されてしまった。なんて声をかけたらいいか分からないんよ。誰にも言えんかったね」
「おばあさんが沖へ船が心配になって行ったら、津波にのまれてしまった」
当時の写真を見せながら語ってくださる方もいた。それぞれの思いを聞かせていただき、受け止めることをした。
一緒に車に乗せてもらったおじいさんが偶然に知り合いに会って「生きてたんか!」と震災後、初めて再会する場面に立ち会うこともあった。
勉強中にひざに座ってきて「震災前に戻りたいなあ…」とつぶやく小学生もいた。
それら多くの方々の言葉を聞きながら、阪神・淡路大震災の後も、それぞれがこんな思いを抱えて過ごしてきたんだろうな、と思った。さまざまな立場で、「震災」と向き合ってきたことを想像した。
雄勝町の人が、私に話してくださったことに対して「ありがとう」の気持ちとともに、今後もつながっていきたいという思いを伝える日々だった。
「神戸から来たあなただからこそ、周りに言えない気持ちを伝えられるわ」
そう言ってくれたおばあちゃんから、私の立場だからこそできることがあるんだと教えてもらった。(小島 汀)