3歳の時、芦屋市津知町で阪神・淡路大震災に遭い、父親の謙さん=当時(36)=を亡くした小島汀さん(34)。遺児支援施設「神戸レインボーハウス」や兵庫県立舞子高校環境防災科、そして東北と、これまでの出会いと経験をつづった手記を昨年、神戸新聞に寄せた。今回は手記の連載最終回の特別編として汀さんに話を聞いた。(中島摩子)

父を亡くした阪神・淡路大震災から間もなく31年。母親になった心境などを語る小島汀さん=大阪府吹田市

 -昨年8月に長女を出産した。今感じることは。

 「自分の人生だけではない、という感覚です。私の母も震災の時、寝ている私に覆いかぶさってくれました。これまでは母の立場で震災を想像することはなかったけれど、その感情が想像できるようになったのかな。母が震災に遭ったのが34歳で、私は今ちょうどその年。この年齢で小学1年と3歳を抱えて被災し、自分は腰の骨を折って入院し、夫も亡くなって…。母は『やるしかなかった』と言うけれど、改めてすごい存在だと思います」

芦屋川沿いで撮影された小島汀さんと、父謙さんの写真(同)

 -長女の名前は「桧凪」ちゃん。

 「風がやんで穏やかになるという意味の凪と、(元プロ野球阪神選手の)桧山進次郎さんの桧。私は小学生の頃、レインボーハウスで出会った桧山さんに元気をもらいました。『あんな人になりたい』と思える人であり、そういう存在になってほしくて一文字もらいました」

震災で亡くなった父も汀さんもプロ野球阪神タイガースの大ファン。マスコットに囲まれ眠る桧凪ちゃん(小島汀さん提供)

 -多くの人との出会いを手記につづってきた。

 「震災がなかったら出会うことのなかった人とのつながりの連続で、今があります。最初に大きかったのは、レインボーの仲間で、『自分だけじゃないんだ』と思うことができた。(阪神の監督だった)星野仙一さんもそう。当時はよく分からなかったけれど、ボランティアの方とか震災後ずっと応援してくださる方とかの存在があって、元気をもらえたと思います」

 「自分がやってもらってうれしかったことをやる。息を吸うように、人とのつながりや時間を大事にするようになりました。座右の銘は『今日という日は今日しかない』。何があるか分からないから、後悔がないように。年数はたっても、つながった人との縁はむしろ深まっていくように感じます」

 -昨年は震災30年。

 「舞子高校の先輩が『震災を語り継いでいこう』と声をかけてくれました。(結婚式や宿泊事業を手がける)勤務先のバリューマネジメント(大阪市)の全社員ミーティングで、舞子高校の先生や先輩と一緒に震災の話をしました。自分も被災した、思い出したと言ってくれる社員がいて…。例年にまして多くの人と震災を共有し、心を寄せることができたと感じます」

母親になった思いや、人とのつながりの大切さを語る小島汀さん=大阪府吹田市

 「人の人生に関わる仕事がしたくて、新卒でウエディングプランナーになりました。その後、東北の特産品を販売する仕事をし、バリューマネジメントに戻って人事で新卒採用をしています(現在は育休中)。学生の人生に向き合う仕事は、自分の生き方に通ずるところがあります。自分との出会いが、相手にとって何かのきっかけになるかもしれない。自分にもそういう人がいっぱいいますから」

 -間もなく震災31年。

 「私は自分の人生を振り返った時、出来事より、人が思い浮かびます。1月17日は追悼の日であり、父を思う日、そして人との出会いとか、自分を支えてくれた人への感謝の気持ちがあふれる日です」

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 昨年1~3月の連載「30年の手記 汀さんと震災」(16回分)は、子どもや若者が震災を学ぶサイト「1・17つなぐプロジェクト」=QRコード=で読むことができます。