小学生対象の「第1回 未来に伝えたい阪神・淡路大震災 1・17震災作文コンクール」には、兵庫県内外から744点の力作が寄せられました。金賞、銀賞、銅賞の4作品を紹介します。(学校・学年は2025年度当時)

【金賞作品】「もしも」 村上愛梨さん 関西学院初等部4年

 もしも、学校にいる時間に地震がきたら、私にできることはあるのだろうか。鳥取や能登など、大地震はいつどこで起こるかわからない。もしもの時にパニックにならないように、日ごろから考えておくことが大切です。

 今、通っている学校は、徒歩と電車で1時間くらいかかります。歩いて家に帰るのはむずかしいきょりです。電車が動かない場合は、学校で待つことになるでしょう。まず、自分の身を守ること。そして、先生の言うことをよく聞くこと。自分自身が落ちついたら、周りの手助けになれるように動きたいです。低学年の子が不安にならないように声をかける、ケガをしている子がいないか気にかける、などです。

 また、電車が動いても、地震のあとは、集団で帰ることも必要だと思います。私の学校では、ふだんは集団登校や集団下校ではありません。私は、地震などの、災害時のために、同じ方面や同じ駅まで帰る人どうしのグループを決めておくといいのではないかと思います。ふだんから同じグループの人と顔を合わせて、何かあったら助け合える仲間がいるとそれだけでもとても安心です。

 私には、妹がいます。私が6年生になった時、妹は1年生です。1年間はいっしょに学校に通えますが、その後はべつべつになります。私が卒業したあとも、妹が安心して学校に通えるような仕組みを作ってあげたいです。

【銀賞作品】「未来へつなげる経験」 山本瑛斗さん 神戸市立渦が森小学校4年

 「ピロンピロン。きんきゅう地震速ほうです。きんきゅう地震速ほうです」

 2024年1月1日。ぼくは母の実家である福井県にいました。リビングにいたお父さん、お母さん、親せきたちのけいたい電話がいっせいになりひびき、かざってあった絵は大きくゆれました。ぼくと妹は初めて経験した大きな横ゆれに、こわくて体がかたまってしまいました。

 お父さんが、「今のゆれは震度4くらいやな」と言いました。「なんで分かるん」と聞くと、「阪神・淡路大震災の時に何回も余震を経験したからなあ」と言い、震災当日の話をしてくれました。中学生だったお父さんは、最初、六甲山がふん火したと思ったそうです。家の中はぐちゃぐちゃになっていて、水そうも落ちてわれていたそうです。あわてて外に出てみると、道はひなんする人でいっぱい。すぐ近くにあった友だちのマンションは真っ二つにわれていたそうです。それを聞いて、ぼくはとてもこわくなりました。その後、お父さんのお父さんといっしょに車で10分くらいのおばあちゃんの家に向かったが、道がぐちゃぐちゃで時間がかかったこと、ついたら家がつぶれていたこと、おばあちゃんはきせき的にたんすのすき間から出てきたこと、「助けて」という声を聞いて近所の人を何人か引っぱり出したが、もうすでに亡くなっている人もいたことなどを聞きました。そんな大きな地震が今、近くで起こったらぼくはパニックになってしまうかもしれません。

 学校でも震災のことを勉強しました。たくさんの人が亡くなったことや、命が助かった人もしえん物資が十分にもらえなかったり、ひなん所で大変な思いをしたりしたと知りました。地震はふせぐことはできません。けれどもそなえることはできます。自分や家ぞくの大切な命を守るために、家具を固定したり、食料や水をじゅんびしておいたりしたいと思います。

阪神・淡路大震災 被災地の通学風景=1995年5月

【銅賞作品】「たおれたタンスと私の命」 小田春美さん 札幌市立しらかば台小学校3年

 「もしかしたら、私は生まれていなかったのかもしれない」

 私のお父さんは六才の時に、はん神あわじ大しん災にあいました。朝早く、ねている時にとつぜん地しんがおこりました。お父さんはおどろいて起きたけれど、どうすることもできなかったそうです。すると、目の前のタンスが、ガッタンゴットンとゆれて、お父さんにたおれて来ました。タンスはお父さんのギリギリ前でたおれたので、お父さんはタンスにつぶされないですみました。

 もし、もう少しタンスの近くでねていたら、お父さんはタンスの下じきになって死んでしまっていたかもしれません。そうなっていたら、私はこの世に生まれていなかったことになります。私はそれに気がついた時、おどろいて、ゾッと鳥はだが立ちました。話を聞く前、私は自分が体けんした地しんではないので、どこか遠い話のような気がしていました。

 しかし、自分の命とかかわっていると知って、実感がわき、とてもこわくなりました。

 地しんの後に外に出ると、地面が大きくギザギザにわれていたり、駅がつぶれていたそうです。地しんがおさまった後でも、われた地面に落ちるゆめを何度も見たそうです。お父さんはびっくりしたと言っていましたが、きっと、とてもこわい気持ちがかくれていて、ゆめに出てきたんだろう、と思いました。

 私はお父さんから、はん神あわじ大しん災の話を聞いて、今までよりも地しんがこわくなりました。自分の命とかかわっていること、もしかしたら、今、ここで起きるかもしれないことを知ったからです。地しんは人間にはふせげませんが、生きのびる対さくは今からでもできます。たとえば、家具をこ定することや飲み水や食べ物を用意するといった対さくは大切だと思いました。もっと対さくできないか考え、私から家族に話をしてみたいです。そして、学校の友だちにも地しんのこわさや今できる対さくを教えたいと思いました。

地震のすさまじさを伝える野島断層=淡路市

【銅賞作品】「私の使命」 上田楓さん 淡路市立北淡小学校6年

 「地域の絆が命を救ったんや」

 阪神・淡路大震災を経験した地域の方の言葉です。私の住む北淡は、地域のつながりが強く、そのため夕方には行方不明者が全員救出されました。また、こうも続けました。

 「自分の命を守るには、近所の人とあいさつを交わすことが何より大事や」

 あいさつは人と人をつなぎ、一つのあいさつをきっかけにコミュニケーションが生まれます。この方のお話を聞き、北淡には近所の人と積極的にコミュニケーションを交わす住民が多くいたので、地震という非常時においても自然と協力体制ができ、多くの命を救うことにつながったと知りました。

 しかし、そんな北淡でも地域のつながりは少しずつ弱まってきています。だからこそ、まずはあいさつから始めて、地域の祭りやイベントにも積極的に参加していこうと思います。

 また、震災から三十一年が経ち、震災を経験した人、当時を語れる人がだんだんと少なくなってきています。あの震災を忘れず、語りついでいく上で、震災を知らない私たちの世代が果たす役割は非常に重要です。以前、神戸市の語り部の方々からお話を聞く機会がありました。語り部の中には、私と同じく震災を体験していない人もいて、少し驚きました。でも、震災を語りつぐのに体験したかどうかはあまり関係しないのかもしれないと気付かされました。だからこそ、震災後に生まれた私たちが当時の出来事を正しく知り、次の世代にしっかりと伝えていく、それが震源地北淡に生まれた私たちに課せられた使命だと決意しました。

 そして、その使命を果たすために、まずは震災を経験した方々の声に、耳を傾けたいです。震災によるひ害の状況、ひ難所生活や復こうにいたるまでの道のり、今ならまだ多くの生きた証言を得ることができます。祖父母や両親をふくめ、一人でも多く生の声を聞き、それを語りつぐことで、いつか来る想定外の出来事に備えたいです。

災した波止場を保存する神戸港震災メモリアルパーク=神戸市中央区