■生きることに必死だった
東日本大震災の2年後、2013年3月。阪神・淡路大震災で父を失った小島汀(おじまみぎわ)(29)=兵庫県芦屋市=は再び、岩手県釜石市を訪れた。
当時、大学生だった汀は、岩手県のNPO法人を通じてボランティアに参加したのだった。全国から集まった大学生と一緒に、津波被害から再建されたパン工場や、併設するカフェのオープンを手伝うことになった。
それが、後に「パパ」「ママ」と慕うようになる澤口和彦さん(54)と玉枝さん(54)夫婦との出会いだった。2人は学校給食向けにパンを製造している。
作業を前に、一人ずつ自己紹介をした。
「阪神・淡路大震災で父親を亡くしましたが、その時、たくさんの人に助けられました。大学生になった今、今度は自分がお返しする番です」
明るく話す汀の言葉。玉枝さんの目に涙がたまっていった。玉枝さんは「私たちはいつの間にか『人のためにできること』を忘れてた。ミギ(汀)の言葉で気づかされた」と振り返る。
「震災後、私たちは生きること、自分のことだけで、精いっぱいだったから」
◇
あの日。和彦さんと玉枝さんは、海から500~600メートルの場所にある自宅兼パン工場にいた。
震度6弱の激しい揺れ。消防団員の和彦さんは、急いで水門を閉めに行った。
恐怖に耐えて作業し、家に戻ると、津波が防潮堤を越えるのが見えた。しばらくすると、道路に黒い泥水が押し寄せてきた。電信柱がボンッ、ボンッと倒れていく。「これはまずい」
近所を見回りに行った和彦さんは最後、木に登って命をつないだ。すぐ後ろでバリバリと家がつぶれる音がした。怖くて振り向けなかった。
近所のじいちゃんもばあちゃんも、和彦さんが「先に行ってて」と声を掛けた夫婦も、津波にのまれた。
玉枝さんは坂道を駆け上がる途中で、自宅が流されていくのを見た。
「あり得ない現実すぎて、悲しいも何もなかった」
住む場所も仕事もなくなった。自宅兼パン工場のローンが残り、工場を再建するにも、家を建てるにもお金がかかる。
「大変なことばかり。あんとき流されてもよかったかな、と思うぐらいつらかった」と和彦さん。玉枝さんは「立ち止まって泣いてられなかった」。ただ必死だった。(中島摩子)
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