〈僕のことは案ずることは要らない 達雄を愛し 母子共に 明朗な日を〉
ロサンゼルス五輪(1932年)の競泳男子100メートル自由形銀メダリスト、河石達吾さんが太平洋戦争末期、硫黄島から妻へ送ったメッセージだ。
記したのは1945年の年明け。日本軍は全島に地下陣地を構築し、圧倒的な兵力を持つ米軍の上陸に備えていた。
妻輝子さんは2月9日までに、達吾さんへの思いを便せん5枚にしたためた。
12月6日に生まれたばかりの息子、達雄さんの写真も3枚同封した。裏には撮影日とともに「生後43日」「生後53日」と記した。
だが、戦局の悪化に伴い、手紙は神戸に戻ってきてしまう。達吾さんが息子の顔を見ることはなかった。
◆
2月19日、ついに米軍が上陸する。日本軍は地下陣地にこもり、壮絶な持久戦を展開した。
それから1カ月ほど後、大本営は、日本軍が総攻撃を敢行したと発表する。組織的な戦いは26日に終結した。
硫黄島で日本側の死者は約2万人。生き残ったのは約千人だった。
戦争が終わった翌年5月、死亡告知書が輝子さんに届く。死亡日は総攻撃の日とされる3月17日だった。
「必ずどこかで生きている」。輝子さんは達雄さんが小学生のころまで、そう言い続けたという。死んだとは、絶対に言わなかった。戦争の話もしなかった。
遺骨は戻らず、自宅には硫黄島の石のみ。輝子さんが、達吾さんの墓を作ることはなかった。
働きながら1人で達雄さんを育てた輝子さんは、91年、74歳で亡くなる。数年後、遺品の整理をしていた達雄さんは、タンスの中から古びた手紙の束を見つけた。父が硫黄島から送った6通だった。
自分の名前が大きく書かれた手紙を初めて目にし、「おやじ、どこにでもいる親ばかだったんだ…」とこみ上げた。
もう1通、開封されずに残された手紙があった。輝子さんが、戦地にいる夫に向けて書いたものだった。
息子は封を切った。
◆
〈1日も早く御帰還下さいますやうにとそればかり祈っています〉〈早く平和な日が来ますやうに〉
生まれたばかりの自分を抱きながら、夫の身を案じる母の姿が思い浮かんだ。
〈達雄は元気で大きな声で泣きます きっと丈夫な赤坊だと思います 安心下さいませ〉
〈いくら爆撃が多くても 硫黄島に 達雄と一緒に飛んでいきたい〉と続き、こう締めくくってあった。
〈大好きな 大好きな 御主人さまへ〉-。母の熱く切ない感情が、50年のときを経て、よみがえった。
達雄さんは99年、両親の墓を立てた。入れたのは母の骨と、硫黄島の石。場所は神戸市東灘区の高台を選んだ。
そこからは、2人が9カ月の新婚生活を送った場所が見渡せる。(中島摩子)
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