スポーツ

  • 印刷
播戸竜二さん=大阪市中央区(撮影・中西幸大)
拡大
播戸竜二さん=大阪市中央区(撮影・中西幸大)

 神戸の地を離れて、もう15年になる。冬でも半袖でピッチを駆け回っていた若きストライカーは、Jリーグ7クラブを渡り歩き、昨年9月、40歳の節目に現役引退を表明した。サッカー元日本代表の播戸竜二さん(41)。今はJリーグ特任理事として、選手に近い目線でリーグ運営に助言を送る。解説者の顔も持ち、スポーツ界の外にも交友を広げる今、どんな将来像を描くのか? 「まだまだ勉強不足です」。エースナンバーの「13」を背負ったヴィッセル神戸での日々を糧にして、目指すは日本サッカー界を背負って立つ男-。(小川康介)

 -3月にJリーグ特任理事に就任した経緯と、村井満チェアマンから求められる役割を教えてください。

 「2月にあったJリーグのキックオフカンファレンス(開幕前イベント)で、OBの知見を生かして協力してほしいと話がありました。J1、J2、J3でプレーし、選手会にも8、9年関わって副会長をしていたので、村井さんと話をする機会は多かったんです。特任理事に議決権はありませんが、Jリーグの理事会でいろいろな話を聞き、意見を言うことができます。選手を終えてすぐだし、経験を踏まえ、今思うことを発言してほしいということでした」

 -今年は新型コロナウイルスの感染拡大があり、特任理事として選手の心のケアを訴えたそうですね。

 「Jリーグも休止、延期になるということが何回か続きましたし、選手会長や選手たちに話を聞くと、終わりの見えないつらさ、大変さを抱えていたので、自分の思いを含めて伝えました。NPB(日本野球機構)との連絡会議にも呼ばれ、僕が現役に一番近い存在だったので、選手の思いをまとめて発言することを意識しました。コロナに関してはプロトコル(共通の約束事)ができており、対応できている状況なので、このまま収束させていくことが一番でしょう。ただ、物事が会議の中だけで決まってしまいがちで、選手を思ってやっていることが、実は選手の考えと違うことがないわけではない。(各クラブが厳しい経営を迫られている中で)今後出てくる契約の話についても、より細かい選手とのコミュニケーション、説明、そして互いの信頼関係が必要になります」

 -引退してから1年が過ぎました。

 「2018年に琉球(りゅうきゅう)でJ3優勝を果たし、まだプレーしたかったのですが、契約延長の話はありませんでした。他のチームを探す一方で、日本の中心で人も集まる場所で勉強したい思いがあり、東京に行くことは決めていました。別の仕事をしながらプレーできる環境があれば、それも一つだなと。その後、別の役割が楽しくなってきたので、選手としてのステージは終わったと感じ、引退を決めました。プロとして21年間やってきて、しっかり区切りもつけたので、サッカーをしたいという気持ちは全然ありません。今後、どんな道があるのかを勉強してきた1年でした」

 -ヴィッセル神戸の4年間を振り返って、印象に残っていることはどんなことでしょう。

 「何よりも自分が生まれ育った兵庫県のチームでプレーできたことが大きかったなと思います。憧れのカズさん(三浦知良選手)がいたし、いつかは地元でプレーしたいと思っていたので、二つの夢をかなえられた。地元のチームで地元の人たちに応援してもらう経験はなかなかできないですからね。最初の02年はJ2に降格しかけましたが、最後の清水戦で2ゴールを決めてJ1に残留できました」

 「04年は21年間のキャリアの中で一番点を取った年(17得点)でしたから、それをサポーターに見てもらえたのは幸せです。イルハン選手がトルコのベシクタシュから神戸に来ると決まった時に、向こうも代わりの選手が必要という話になり、僕の名前が挙がったのですが、ヴィッセルでやると決めていたので行きませんでした。今みたいに何があっても海外に行く時代ではなかったですし、Jリーグで結果を残して日本代表に入ることが一番の目標でしたから。あの年はそういう思いもあって結果が出ました」

 -憧れのカズさんとはプライベートで積極的に関わりを持とうとしませんでした。なぜでしょうか。

 「カズさんみたいになりたい、一緒にやりたいと思ってヴィッセルに入り、カズさんが横浜FCに移籍するまでの3年半、プロとはどういうものか、サッカーに対する考え方、練習に対する姿勢など多くのことを学びました。サッカー人生で一番影響を受けた人ですが、同時にライバルでもありました。その折り合いをうまくつけられるタイプではないので、これから代表も狙っていかないといけないという状況で憧れは捨てたというか、ふたをしましたね。若かったんですね、僕も」

 -ヴィッセル退団は難しい決断でした。J2降格が決まった上で残留するか、日本代表を目指して移籍するか、気持ちは揺れたと思います。

 「05年はけがをしてしまい、チームもJ2に落ちて、サポーターに苦しい思いをさせてしまいました。結果的にG大阪に移籍したので、僕に対していろいろな感情があると思います。まだ代表にも入っていない中で経験を積み、成長できた4年間でしたから、感謝しかありません。さらに次のステップに行く、代表を目指す。シンプルにその部分で決断したということです。J2に落ちてしまったことを自分だけで背負い過ぎていた部分があったかもしれませんが。チームには慰留してもらい、思いを受け止めた上で自分の未来を決めました。いろいろなチームに移籍したことに対し、一つの悔いもないサッカー人生でした」

 -これから自身が目指す道は? ヴィッセルに戻ってくるという選択肢はありますか。

 「Jリーグのチェアマン、日本サッカー協会の会長になりたいという目標は大きく持っています。僕は監督というよりマネジメント、経営の方に行きたいので、クラブの社長もやりたい。あいつに任せてみたいと思ってもらえる人間になりたいです。毎年優勝争いをする、地域の人に愛されるクラブをつくる。その二つが軸になります」

 「ヴィッセルの経営権を三木谷(浩史)さんが取って16年、天皇杯というタイトルが一つ取れて良かったなと思います。1月1日の決勝は目の前で優勝を見ました。三木谷さんの胴上げ姿はうれしかった。情熱を注ぎ、お金も使ってくれていますから。9月にアツさん(三浦淳寛さん)が監督になりましたが、神戸で一緒にプレーした人たちがたくさんヴィッセルで働いているので、いい成績を残してほしい。クラブをどう成長させていくのか楽しみです。ヴィッセルに戻りたいと言ってすぐできるものでもありませんが、選手時代にああいうふうに出て行ってしまったという思いはずっとあるので、チャンスがあるなら力になりたいですね」

【ばんど・りゅうじ】1979年姫路市香寺町出身。98年、琴丘高からG大阪入り。札幌、神戸、C大阪、鳥栖、大宮、琉球でもプレーし、昨年引退。Jリーグ396試合109得点。日本代表7試合2得点。

■Jリーグ特任理事 2014年新設の役職で、議決権はないが、理事会に出席して意見を述べ、質疑に応じることができる。任期は2年。播戸竜二さんは今年3月、現日本サッカー協会技術委員長の反町康治さんらとともに就任。過去には元日本代表DFの宮本恒靖さんらも務めた。

スポーツの最新
もっと見る
 

天気(9月10日)

  • 32℃
  • 27℃
  • 50%

  • 31℃
  • 24℃
  • 60%

  • 35℃
  • 28℃
  • 50%

  • 35℃
  • 26℃
  • 50%

お知らせ