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水揚げしたワカメを、沸騰する海水に漬ける千葉正志さん(中央)。右は弟の正友さん=宮城県南三陸町歌津(撮影・宮路博志)
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水揚げしたワカメを、沸騰する海水に漬ける千葉正志さん(中央)。右は弟の正友さん=宮城県南三陸町歌津(撮影・宮路博志)

  • 水揚げしたワカメを、沸騰する海水に漬ける千葉正志さん(中央)。右は弟の正友さん=宮城県南三陸町歌津(撮影・宮路博志)

水揚げしたワカメを、沸騰する海水に漬ける千葉正志さん(中央)。右は弟の正友さん=宮城県南三陸町歌津(撮影・宮路博志)

水揚げしたワカメを、沸騰する海水に漬ける千葉正志さん(中央)。右は弟の正友さん=宮城県南三陸町歌津(撮影・宮路博志)

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 大津波が町を襲った日から、間もなく2年-。東日本大震災の直後から、私たちは宮城県南三陸町で取材を重ねてきた。震災直後、1年後、2年後…。家族を亡くした悲しみは癒えず、先の見えない仮設住宅暮らしが重くのしかかる。それでも生活復興を目指し、懸命に生きる被災者の姿を伝えたい。

(宮本万里子)

 空は晴れ渡り、湾の水面は穏やかに輝いていた。2月下旬、宮城県南三陸町歌津地区。倉庫の白い壁が冬の太陽を跳ね返す。ひときわ目立つ、この倉庫を1年ぶりに訪ねた。

 震災後、漁師の千葉正志さん(65)が、津波で流された自宅跡地に建てた。出荷前のワカメを束ねる作業などに使う。最盛期を迎えたワカメ漁が一段落ついた午後、正志さんが丸椅子にどっかりと座り、切り出した。

 「娘がまだ、あがんねえっちゃ。何をばか言って、と思われるだろうけどさ。海の中に、娘をさがしてしまうのさ」

 正志さんの長女、小野寺光子さん=当時(35)=は南三陸町役場職員。勤務中に津波に襲われ、今も行方がわからない。海からワカメを採る時、底引き網を引き上げる時、正志さんは光子さんを思い、海に目を凝らす。

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 正志さんは中学卒業後、漁師になった。海しか知らない。ワカメ、ウニ、メカブ、カキ…。海の恵みを求め、長男の仁志さん(34)とともに一年中、船を出す。

 地震の日、陸にいた正志さんは、仁志さんと「第八大勝丸」の元に走った。「生きる糧だ。守らねえと」。約5キロ先の沖合まで船を出した。3日後、陸に戻ると、自宅や近所の家はごっそり流されていた。

 妻や母、仁志さんの子どもら家族は避難して無事だったが、光子さんだけが見つからなかった。

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 正志さんと初めて出会ったのは、歌津地区のスポーツ総合施設「平成の森」の避難所。「海にやられっぱなしじゃ終われねえ」と語っていた。今は隣接地に建設された仮設住宅で家族と暮らす。

 そのときの言葉通り、正志さんは震災の1カ月半後、養殖用の小型船を購入。夏には白い壁の倉庫を建て、1年前、ワカメ漁を再開した。昨年は復興支援の「特需」もあってか、売値が跳ね上がり、例年の3倍ほどの収入があった。

 しかし、今年は震災前の価格を下回り、一部のワカメは変色して売り物にならない。漁師仲間は「海水の状態が悪い」と言い、「こんな年は初めてだ。津波の影響なんだかな」と正志さんはため息をつく。

 それでも毎日、早朝から漁に出る。「おやじの年で、極寒の海はきついよ」と仁志さんが心配する。「でも、『かじを離せ』とは言えねえ。おやじの思いがあるからさ」

 震災から時間がたつにつれ、正志さんは「この海のどこかに娘がいるんじゃねえか」と強く思うようになった。

 「海は憎い。憎いんだよ。でも俺たちは海なしじゃ生きられない。一生続く気持ちの闘いだべ。動けるうちはずっと船に乗るさ」。正志さんは白い壁の倉庫から穏やかな海を見つめた。

〈被害状況〉

 東日本大震災による死者566人、行方不明223人。計789人は、震災時の町人口の約4・5%に当たる。沿岸部の志津川地区など最大で7割以上の建物が津波で流され、2013年2月末現在、全町民の約4割、約5800人が仮設住宅で暮らす。

2013/3/9
 

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