戦没した青年たちは、友と過ごした白亜の学舎で眠る。
兵庫県姫路市新在家本町、兵庫県立大環境人間学部。ここに旧制姫路高等学校(現・神戸大)があった。現存する大正洋風木造建築の旧本館。一角にある同窓会の史料室の壁一面を戦没者の遺影が埋める。
姫高は1923(大正12)年に設置された。翼を広げた白鷺(しらさぎ)の校章。白線入りの学生帽に黒マント姿の男子生徒が下駄(げた)を鳴らし、羽ばたいた。「高校生は特別な存在。街の人たちは姫高を大切にしてくれた」。旧制神戸二中(現・兵庫高)出身で、19回生の三谷敏一(90)=堺市=は、そう懐かしむ。
しかし、四半世紀に及ぶ校史に戦争が影を落とす。満州事変、日中戦争、太平洋戦争-。三谷や同窓生は激動の時代を生きた。
太平洋戦争開戦から間もない42(昭和17)年4月、三谷は17歳で姫高文乙(文科ドイツ語専攻)に入学した。大半が帝国大などに進むエリート養成校。西日本各地や関東、旧満州の旧制中学から激しい受験競争をくぐり抜けた健児が集った。
街はシンガポール陥落の報に沸いていた。だが学舎は田園地帯にあり、近くの陸軍から響くラッパは、カエルの合唱の中に消えた。
三谷がいた神戸二中では軍隊のようなカーキ色の制服に、ゲートルを巻いて登校した。「何かにつけて報国。右へならえ。規則ずくめだった」。ところが姫高は生徒の自主自立を重んじる空気に満ちていた。「こんなんでええんかいな」
三谷は言う。「語学以外は自由に選んで勉強できる。リベラルアーツ(教養)というのか、いかに人間は生きるべきかを考え、学ぶ場だった」
寮歌「序歌」は高らかに宣言する。
自治協同の旗の下
独立不羈(ふき)を大呼せよ
陸軍が拠点を置く軍都・姫路にあって、姫高は自由教育の府であり、男子生徒の青春の城だった。当初の拍子抜けは、姫高生であることの誇りへと変わった。(敬称略)
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大正デモクラシーと自由教育主義を背景に誕生した旧制姫路高校。しかし学園は戦時色が強まる時代の渦にのみ込まれ、生徒たちはいや応なく、ペンを銃に持ちかえることになった。戦後70年。学生たちの軌跡を追う。(仲井雅史)
2015/8/16