70年前、日本の敗戦とともに一つの国が消滅した。中国東北部に樹立された「満州国」(1932~45年)。わずか13年の運命だった。
玉座にいたのは中国清朝のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)。崩壊した清朝の再興を願っていた。そのめい、福永嫮生(こせい)(75)が現在、西宮市で暮らす。
父は溥儀の実弟、溥傑(ふけつ)。母は天皇家の縁戚にあたる嵯峨(さが)侯爵家の娘、嵯峨浩(ひろ)。嫮生は満州国の“皇女”ともいえた。
溥傑、浩の結婚は、「日満一体」のシンボルとされ、日本中から祝福を受けたが、権謀術数にまみれた政略結婚だった。それでも夫妻は引かれ合い、2人の娘、慧生(えいせい)と嫮生に恵まれた。家族4人は戦争に引き裂かれ、日中のはざまで揺れた。
満州国崩壊後、溥儀、溥傑はソ連軍に拘束され、5歳の嫮生は母とともに1年5カ月にわたり大陸を流浪。飢えに耐え、虐殺を目の当たりして死地をくぐり抜けた。日本にいた姉の慧生は戦後、悲劇に見舞われることになる。
「人がたくさん亡くなったのを見てまいりました。まだ脳裏に残っています。戦後、父と母は日中友好を願いながら生きてきました。私も同じ思いで、これからも取り組んでまいります」
嫮生は70年を振り返り、平和への思いを静かに語り始めた。
◇ ◇
1937(昭和12)年4月3日、愛新覚羅溥傑(ふけつ)と嵯峨浩(ひろ)が結婚。日本は祝賀ムードに包まれ、日満両国の国旗がはためいた。この秋、2人は満州へ。次女として生まれた嫮生(こせい)が振り返る。
「母は、満州の土となるつもりで嫁いでおりました。一生懸命お仕えしようという志は生涯忘れず、自分の使命と思って努力したと言うておりました。父は心がきれいな方でしたから、母は人柄にずっとひかれていたようです」
当時の新聞や雑誌は、2人が婚約した時から盛んに報じた。東京での結婚式を伝える神戸新聞(4月5日付臨時夕刊)には2人の晴れ姿とともに「輝く“日満の契”」との見出しが躍る。
満州国の法律上、溥傑に男の子が生まれたとしても次期皇帝となる権利はなかった。だが、外務省外交史料館に残る、溥儀と関東軍司令官の間で交わされた密約(覚書)の写しはあらゆる可能性を想起させる。
「一、康徳皇帝(溥儀)ト帝后トノ間ニ帝男子無キコト確実トナリタル時ハ皇位(帝位)継承ハ一ニ天皇ノ叡慮ニ依リテ之ヲ決定スルモノトス」
つまり、溥儀に子どもがなければ、次の皇帝は天皇が決めることができた。満州国の実権を握る関東軍は、本国に黙って国家の重大事に介入していたことを示している。
結婚を主導したのも関東軍だった。溥儀は天皇の威光を利用しようと溥傑の相手に皇族を望んだが、浩が侯爵家だったため失望したとされる。そんな政略結婚でも、深い愛情で結ばれていたことを嫮生は知っている。
「87年、北京で母が亡くなったとき、父は遺体にしがみついて『浩さん、浩さん』と呼んで号泣しておりました。その姿を見たとき、母は随分苦労したけれども、あんなに嘆き悲しんでもらえて、女としては幸せだったんじゃないかなと思ったんです」
日本が降伏すると、大陸の情勢は混乱。浩と嫮生は満州の首都、新京を逃れ、通化、大栗子(だいりっし)…と1年5カ月にわたり流浪する。国民党軍と中国共産党軍による勢力争いの中、46年2月に通化で日本の元軍人や一般人が蜂起した。共産党軍に拘束された溥儀の皇后婉容(えんよう)や浩の奪還をもくろんだが、失敗。日本人3千人が殺害されたとも言われる。
「日本の方たちが助けようと入って来られて、撃ち合いや斬り合いになりました。中国の方も私や母に敷布団をかぶせて上に伏せて守ってくださったんです。多くの方が亡くなってしまわれました」
「中国の兵隊さんも子どもには優しかったんですよ。監獄にいたときも、私だけ散歩に連れ出して食べ物を買ってくれたんです」
戦争に苦しめられ、何度も死にひんしながら、国や政治を超えた人の優しさに救われた。
「日本人にも、中国人にも助けられ、今日の私があります。そのことを忘れず、生きてまいりました」
【満州国】 1931(昭和6)年に満州事変があり、日本の関東軍が翌32年に中国東北部に樹立、首都は新京(長春)とした。執政に清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を迎えた。清朝の再興を夢見る溥儀は34年、満州国皇帝に即位。「五族協和(日本人、漢族、朝鮮族、満州族、蒙古族)」と宣伝し、各大臣や県長には中国人が就いたが、次官や副県長などを占める日本人が実権を握る傀儡(かいらい)国家だった。45年8月、日本の敗戦で溥儀が退位し、消滅した。
(敬称略)
(森 信弘、吹田 仲)
2015/11/18