第8部 祭り不易流行
兵庫県姫路市に源流をもつ「神輿屋根型」祭り屋台。灘のけんか祭りで知られる浜手から、山手へと広がった「やっさ」は今、県境を越えて岡山県美作市の旧宿場町でも躍動していた。

金銀で飾られた漆塗りの神輿(みこし)屋根が激しく揺れる。周囲を彩るのは赤や白、黄のシデ棒。4台の屋台が練り合わせ、歓声が湧く。
一瞬、兵庫県播磨の祭りかと見まがうが、ここは国境(くにざかい)を越えた作州、岡山県美作(みまさか)市。7日、大原の秋祭りが本宮を迎えた。
大原は姫路と鳥取を結ぶ旧因幡(いなば)街道の宿場町として栄えた。屋台は、明治期には隣の兵庫県佐用町などから伝わった。現在の4台は姫路の飾磨、網干などで活躍したもので、平成に入って買い替えられた。
「姫路の方はもっと派手じゃろうけど、こっちも面白うやってます」。古町(ふるまち)地区の屋台保存会会長、森岩義幸さん(56)が笑う。
「ヨーイヤサー」。3台が、播磨流の練り合わせで観衆をうならせ、魚吹(うすき)八幡神社がある網干から来た1台は、本場譲りの力技「チョーサ」を堂々披露した。
屋台がつなぐ誇りと絆。今年も作州の町に播州が躍動した。

4枚の図面がある。
描かれているのは1924(大正13)年、33(昭和8)年、72(同47)年、95(平成7)年に作られた播州屋台の神輿(みこし)屋根の立面図。軒先が端に向かって反り、軒下に垂木(たるき)が寸分狂わぬ等間隔で並ぶ。四隅には「水押(みお)し」が跳ね、壮麗な社寺建築や波を切る舟のへさきを思わせる。
「宮大工と船大工、家大工の技が要る。分かって図面を引かんと、まともには作られへん」。図面を再現した福喜(ふくよし)建設の福田喜次さん(66)=姫路市木場(きば)=が明かす。
旧灘7カ村の一つ、木場は神輿型のルーツとされる。過去3代の屋台を祖父の代から仕立ててきた縁で、95年の制作の中心を任された。
作業は5月ごろ始まり、柱同士の距離などで全体のサイズを決め、それに合わせて部材の大きさ、組み合わせを設計した。ベニヤ板に原寸のパーツの図面を引き、切り抜いて型板を作る。立体のヒノキ材に写し、部材に仕立てる。これらの手間が精緻な組み木を可能にする。
白木が変色しないよう鉋(かんな)がけは9月の納品ぎりぎりに。技法に、工程に、計算を重ねたつもりでも不安で眠れぬ日が続いた。
魂をつぎ込んだ屋台は、傑作の評判を取った。市外からも依頼が相次いだが、新調は原則、年1台にとどめる。「時間をかけて地元と話し、本当に必要とされる屋台を突き詰める」。長男幸義さん(41)、三男秀介さん(34)も同じ道を歩み、木場仕込みの魂を受け継ぐ。

神社の祭りは本来、神事が中心だ。神輿がお旅所に向かう「神幸(しんこう)式」と神社に帰ってくる「還幸(かんこう)式」が執り行われる。「行列に加わった山車(だし)などが各地で発達を遂げた。祭り屋台もその一つ」と神戸市立博物館副館長の山崎整さん(66)。
瀬戸内沿岸では、井桁に組んだ担ぎ棒で太鼓と打ち方を支え、大勢で担ぐ「太鼓台」が文化文政期(1804~30年)までに広がった。沿岸部を中心に財を成した民衆が求め、周りの農村に波及した。村同士で競い合い、豪華に作り替えた後は他所に売却したため、掛け声や担ぎ方などとともに伝わったらしい。
屋根は布団を載せる「布団型」が多かったが、屋台研究家の粕谷宗関(かすたにそうかん)さん(73)=姫路市飾磨区=は「18世紀初めごろ、姫路南部で独自の『神輿屋根型』屋台が現れ、周辺にも根付いていった」とみる。
屋根は深く、飾り金具はきらびやかに進化。屋根下の狭間(さま)彫刻も立体化、複雑化した。四隅には伊達(だて)綱を縛り付け、水引幕には派手な刺繍(ししゅう)を施した。浜手から川沿いに山手へと伝わることが多く、岡山県美作(みまさか)市などの内陸部に年代物が多いという。
兵庫県佐用町、龍山(りゅうざん)神社の秋祭りでも、戦後間もなくに赤穂から買ったという大屋台を練った。神社総総代の倉部次男さん(84)は「その前にもあったらしい。お神輿だけやったんが、浜手の祭りがええなあ、と取り入れたようや」と話す。
現在の大屋台は姫路で1998年に新調し、その後、赤いシデ棒や「ヨーイヤサー」の掛け声など浜手流を取り入れた。ただ、屋台を差し上げる声は「サーイタワー」と佐用流を受け継ぐ。「商売繁盛や結婚で花が咲いたわ、というふうなめでたい意味」と宮総代の山川隆さん(65)。

9月末、兵庫県福崎町八千種(やちぐさ)の鍛冶屋区の屋台蔵。大勢の男衆が夜な夜な集まり、戻ってきたばかりの布団屋根型屋台を飾り付けていた。
130戸ほどの小集落で、1940年代ごろからとされる屋台を担いできたが、2000年と今年、2度にわたり大規模改修をした。
「理想通りや。これならよそに負けん」。跳びはねて真新しい木組みをきしませる高校生も、下から指示を飛ばす30代も喜びを隠せない。「新しい屋台は落とすと木が縮むから気を付けてや」。そう諭しつつ、毛利工務店(姫路市白浜町)の大和勇介さん(24)の頬も緩む。創業者の孫で、大工になって6年目。今回は彫刻も手掛けた。
大木を丸ごと買ってきて、数年間乾燥させた後、加工する。地域を歩いて歴史や人口、年齢構成、道路網を頭に入れ、安全に担ぐことができる好みの屋台を提案する。
「少子高齢化で担げなくなってしもたら元も子もない。大きく見せて、丈夫に予算内で。神さんに見られる仕事やから手は抜けません」
作り手、担ぎ手、負けじと熱く。播磨魂、ここにあり。
(記事・佐伯竜一、上田勇紀 写真・大山伸一郎)

一口に神輿(みこし)屋根と言っても、江戸期は高さ35センチほどだったのが、明治期には60センチになり、現代は高いものだと約1メートルに。ただ、近年は少子高齢化の影響もあって、大きく見せながら軽量に仕立てるのが流れだとか。
「うちの仕事が50年、100年の看板になるから」「祭りの後、依頼主から『一杯やろか』って言われるとうれしいわな。よかった、うちの屋台、悪うなかったんやと」。担ぎ手はもちろん、作り手も半端ない。ほんま、祭りが好っきゃなぁ。