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5年間の暮らしを記録したノートを繰ると、苦労をともにした住民の顔が浮かぶ=神戸市垂水区
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5年間の暮らしを記録したノートを繰ると、苦労をともにした住民の顔が浮かぶ=神戸市垂水区

5年間の暮らしを記録したノートを繰ると、苦労をともにした住民の顔が浮かぶ=神戸市垂水区

5年間の暮らしを記録したノートを繰ると、苦労をともにした住民の顔が浮かぶ=神戸市垂水区

■三原邦夫さん(71) 岡山県山陽町

 岡山県山陽町は岡山市の北東に隣接する。同町内の県営山陽団地は一九九五年、いち早く阪神・淡路大震災の被災者を低家賃で受け入れたため、一時は約百五十世帯の県外被災者が住んでいた。

 九六年夏。神戸新聞の記者が取材で同団地を訪れると、「今ごろ、何しに来たんや」と高齢の女性から怒りの声をぶつけられた。被災地から遠く離れ、行政情報や支援が届かない中、多くの人が疎外感を募らせていた。

 当時、被災者親ぼく会「岡山阪神会」の世話役だった三原邦夫さん(71)のノートには、そのころの記録が克明に記されている。五年前に神戸に戻り、今は神戸市垂水区の災害復興住宅で自治会役員を務めている。

    ◆

 見せてもらったノートの名簿には、赤で何本もの線が引いてあった。山陽団地から転出した人たちを消した跡だ。中には生活苦から夜逃げ同然でいなくなった被災者もいた。「線を引くたびに、むなしさが募った」と三原さんは振り返る。

 現在も、二十世帯ほどが団地に残っている。ほとんどが永住を希望した人たちだ。岡山での暮らしが気に入った人もいるが、経済的、家庭的な事情から、帰ることを断念した人たちもいる。

 三原さんは先祖の墓が広島県福山市にあるので、墓参りに行く途中、必ず山陽団地に立ち寄る。今年も六回ほど足を運んだ。山に囲まれた豊かな自然が懐かしい。

 しかし、車で通りすぎるだけで、住人とはなるべく顔を合わせないようにしている。「会うとつらい。どんな顔をして話をすればいいのか…」。希望して残った人が大半とはいえ、「自分だけ神戸に帰ったことが、申し訳ない気がする」と漏らす。

 皆が好んで山陽団地に来たわけではない。仮設住宅の完成を待って入居していれば、住み慣れた町を離れずにすんだかもしれない。が、人によっては待てない事情もあった。三原さんは、じっとノートを見つめた。

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 山陽団地に、神戸に帰りたいとひたすら願い、公営住宅の抽選に応募し続けている夫妻がいると聞き、取材を申し入れた。だが、「マスコミに言っても事態は何も変わらないから」と固辞された。沖縄県にも神戸の公営住宅入居を希望し続けている被災者がいたが、やはり取材は断られた。

 県外被災者の正確な実態はつかめない。ただ、神戸市が、市外に暮らす被災者に送る広報紙の数が、その一端を物語る。

 最も多かった一九九七年七月号の送付は約一万四千部。今年七月号でも、なお約八百部を送り続けている。うち、半数が県外に住む人たちだ。帰ることを願いながらも、こうした数字に表れない人たちは少なくない。

2004/12/20
 

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