■山田一彦さん(52)広島市
学生時代にアルバイトした元町の楽器店、よく通った老舗の餃子(ぎょうざ)専門店、愛してやまない阪急岡本駅近辺の街並み-。
広島市の小高い住宅地に立つマンション。ギター教室を兼ねた自宅で、山田一彦さん(52)の口から、二十四年間暮らした神戸の記憶があふれ出した。だが、十年前の「決断」に触れた時、それまでの笑顔が曇った。
「自分だけ被害のないところで暮らし、復興に協力できない。神戸を裏切ったような後ろめたさが、ずっとあった」
山田さんのお気に入りという、自宅の一室から見下ろす眺望。宮島などが浮かぶ穏やかな瀬戸内の光景は、神戸の表情とよく似ている。
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阪神・淡路大震災による神戸市東灘区の自宅の被害は一部損壊でとどまった。しかし、ギター教室と演奏活動の収入で立てていた生計が行き詰まった。
今は離れて暮らす、当時小学一年だった娘の通う学校が避難所となり、授業再開のめどが立たなかったことも、親として気掛かりだった。
「とりあえず神戸を離れよう」。出身地の山口県に近く、中学時代に二年間を過ごした広島を落ち着き先に選んだ。地震発生から一カ月半後のことだった。
広島では「被災者が頑張っている」とマスコミで紹介され、演奏依頼が入った。一方、音楽どころではないと思っていた神戸から間もなく、レッスン再開を望む生徒の声が届いた。
三十人ほどいた生徒は半分程度に減ったが、月に二回、神戸に通った。「もう少し我慢していれば、神戸を離れずに済んだかも」。早く帰りたいという思いとは裏腹に、広島で徐々に生活の基盤が整っていく。
一九九八年秋、神戸の教室を打ち切った。
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震災直後、広島県内には約三百世帯の震災被災者が避難した。約八十世帯で「のじぎくの会」を結成し、支え合った。山田さんは代表を務めるなど、会の中心的役割を果たしてきた。
震災五年を機に活動を縮小したこともあり、現在の会員は十九世帯に。仲間が減る中で凝縮される「帰りたい」の思い。一方で、年齢を重ねるごとに動きづらくなるという残酷な現実-。
「私も含め、震災の記憶に縛られすぎて前を向けない人がいる。十年という節目を、『あの地震さえなければ』という気持ちを吹っ切る契機にしたい」
来年一月十六日、同会は広島市内で追悼祈念集会を開く。その後に予定されている新年会で、山田さんは会の活動終了を提案するつもりだ。
戻れた人、戻れなかった人、残った人…。十度目の「あの日」がめぐってくる。
(記事=竹内章、中部剛、新開真理、小森準平、写真=田中靖浩、三津山朋彦、三浦拓也、山崎竜)=おわり=
2004/12/26