■岩瀧幸則さん(58)静岡県静岡市
「いつ発生しても不思議ではない」と言われて久しい東海地震。地域によっては甚大な被害も想定される静岡市内の幹線道路沿いに、「地震対策」と記されたひときわ目立つ看板がそびえ立つ。
傍らの事務所には、四十品目を超える家具や電化製品の転倒防止器具が展示されている。主は、阪神・淡路大震災直後に神戸から移住した岩瀧幸則さん(58)。再び激震に遭遇する危険性をあえて背負う理由を問うと、こんな答えが返ってきた。
「あの揺れを体験した者にしか、伝えられない教訓がある」
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岩瀧さんは神戸市灘区で被災した。自宅は大きな被害を免れたが、ものすごい勢いで飛んできた本棚が頭の数センチ先をかすめた。その後、被災地では家具が“凶器”となった犠牲者が多かったことを知る。「大げさではなく、人生観が変わった。地震から命を守る役に立ちたいと思った」
美術品を扱う仕事をすっぱり辞めた。一九九五年三月、自ら家具転倒防止器具を考案し、大阪市内に会社を興した。さらに二カ月後、「危険が切迫している地域なら防災意識が高く、学ぶことも多いはず」と考え、拠点を静岡市内に移した。
ところが、「こちらにあったのは水や食料を備蓄するなど、災害後を想定した対策だけ。命や体を守る本当の『防災』は全然考えられていなかった」という。間もなく、自らが地震防災の牽引車(けんいんしゃ)になることを決意した。見ず知らずの土地で、阪神・淡路の体験と防災の意義を行政などに説いて回った。
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当初は単なる販売目的と見られ、適当にあしらわれた。だが、住み慣れた故郷をも飛び出した熱意は次第に受け入れられていく。「夢中で走り続けた九年半だった」と振り返る。現在、静岡県内の公立の学校施設や病院などの多くに、岩瀧さんが開発した転倒防止器具が設置されている。
加えて、教訓を伝える活動の幅も大きく広がった。行政や大学が開く講演会で講師を務め、理事長を務める特定非営利活動法人(NPO法人)で地域の防災意識の啓発に力を注ぐ。事務所にいるのは月の三分の一程度。すべての原動力は「生死の境は紙一重だった」というあの日の記憶だ。
「不特定多数の人が出入りする施設だけでも、家具などの転倒防止措置を法や条例で義務化するべき。それで多くの命が救える」
熱っぽく持論を展開した後、「行政への働き掛けなど、ここでやらなければいけないことはたくさんある。神戸に帰れるのはまだまだ先」と自らに言い聞かせるように締めくくった。
表情に初めて、望郷の念がのぞいた。
2004/12/21